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法隆寺若草伽藍跡

 法隆寺夏期大学参加者に対して若草伽藍特別拝観が行われました。若草伽藍について少し書いておきます。

若草伽藍(本ブログ若草伽藍参照)について

(1) 若草伽藍の礎石
 ・ 江戸時代後期の「古今一陽集」(1746年、良訓編集)に、塔心礎が観音院(現普門院)の敷地の藪林にあることが、 図入りで紹介されています(文献(1))。
 ・ 明治中頃に、塔心礎は北畠治房邸に搬出され、十三重石塔を置く台石とするため、4尺余の方形の彫込みがなされる。その後、大正4年に北畠邸から兵庫県住吉の久原房之助邸へ移されたが、昭和13年に久原邸は野村徳七氏の所有となった。
その頃、法隆寺再建非再建論争が白熱化し、石田茂作氏の朝日新聞掲載の記事によって、塔心礎の重要性に注目が集まり、野村徳七氏は、法隆寺の申し出に、塔心礎の旧地への返還を快諾した。
 ・ JR法隆寺駅まで貨車で運び、そこから木製のコロを敷いた台車の上に礎石を載せ、一週間かけて駅から法隆寺まで曳いて運んだ。 昭和14年10月22日、大垣2間を破って、遂に若草の旧所在地へ据えました。
 ・ 塔心礎は2.7m四方、高さ1.2m、重さ12tもある巨石です。現在の五重塔の心礎の柱座と同様に、若草伽藍塔心礎には八角形の柱座(幅71.205cm)と四隅に添柱用の彫りこみがあります。

(2) 若草伽藍の発掘調査 (1939(昭和14)年12月7日~22日)
    若草伽藍塔心礎の返還に伴い、石田茂作、末永雅夫氏らが、周辺の発掘調査を行った。
 ・ 塔心礎付近の発掘で一辺15.5mの方形の堀込地業(地面を掘って土を入れ突き固める作業)の塔基壇跡を見つけた。また、
  その北側で、東西21.8m×南北19.4mからなる金堂基壇跡を見つけた。 
 ・ 若草伽藍は塔と金堂基壇が南北に並んだ四天王寺式伽藍配置であった。塔と金堂の中心軸は、磁北に対して西に約20度振っていた。石田氏は若草伽藍の全体規模の推定図を示した(文献10, p.293)。
 ・ 金堂の造営工事中に掘られた溝から、創建法隆寺の単弁九弁と八弁の蓮華文の軒丸瓦と手彫忍冬唐草文の軒平瓦が出土した。軒平瓦に文様が付くのは、若草伽藍がわが国で初めてである。八弁蓮華文軒丸瓦は四天王寺と同范で若草伽藍の范が移動した。

(3) 若草伽藍の再調査(1968~1969年(昭43~44年))
    文化庁と奈文研は国営で若草伽藍の再調査を行った。
 ・ 金堂基壇が先に、その後で塔基壇が造営されたことを確認した。
 ・ 塔基壇に塔心礎を据える堀込みがなく、地上式塔心礎であると考えざるを得ない。
 ・ 東回廊、西廻廊、講堂の遺構は削平のため検出できず、若草伽藍の全容はいまだ不明。

(4)防災施設工事に伴う発掘調査(1978~1985年(昭和53~60年))
   奈良国立文化財研究所と奈良県立橿原考古学研究所は全長3.2kmにおよぶ法隆寺境内の防災施設工事に伴う発掘調査を7年かけて行った。
  ・夢殿の北側で斑鳩宮南限の大溝SD1300と、これに直交する西側の溝SD6191を崇源寺の北で見つけた(図1(1)参照)。
  ・若草伽藍の北側と西側で掘立柱塀(北側:大宝蔵殿前掘立柱掘形4個SA4850、西側花園院前参道で柱掘形3個SA3555)を見つけた。また、自然流路SD2140を埋め立ててから若草伽藍西側を限る塀(SA355)を造営し、新しく人工流路SD3560を作ったが、西院伽藍造営のときに埋められたことが分った。

(5) 若草伽藍跡西方の調査(2004(平成16年)) 
    斑鳩町は平成16年に南大門東側広場の整備に伴う発掘調査を行った。その場所は、推定案によれば、若草伽藍の寺域外と考えられていた地域であったが、調査の結果、
 ・ 焼けた軒丸瓦, 焼けた壁土、焼けた壁画片200点以上が出土した。同時に出土した瓦が7世紀前半のものであることから、
   若草伽藍の遺物であると考えられる。
 ・ 金堂などにも仏教的図柄の壁画が描かれいたようであり、日本最古の壁画と言える。
 ・ 若草伽藍の塔・金堂の中軸線から西へ300尺(高麗尺)の場所で斜行溝を検出し、そこが谷となっており、焼けた物がその溝に廃棄されたようである。従来考えられていた若草伽藍の範囲が拡大する可能性がある。
   (この発掘調査に関する正式な報告書は未だ出版されていない。)

(6) 法隆寺旧境内のマンホール設置に伴う調査(2006(平成18年))
  法隆寺境内のマンホール設置工事に伴い、南大門大垣を挟んだ境内のわずか一坪程の調査区を発掘した所、上記と同様の  焼けた瓦や壁画片、壁土が大量に出土した。創建法隆寺を考える上で重要な資料と考えられる。

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若草伽藍全体(聖徳太子建立の聖地。非公開である。夏期大学の参加者のみ拝観できる)
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同上(礎石と大垣)
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礎石の背後に五重塔
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塔心礎 大垣の壁を2間壊して、背後の蔦の絡まる旧北畠邸へ運んだらしい。
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礎石の柱座。八角形の心柱を据え四隅の添え柱で支える。大きな正方形はこの上に石塔を置き風流を楽しんだようだ。
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参考文献
(1) 高田良信 「若草の礎石について」 伊珂留我11, pp.10-21, 1989.
(2) 石田茂作 「法隆寺若草伽藍址の発掘に就て」 伊珂留我11,pp.22-33,1989.
(3) 橿原考古学研究所附属博物館特別展図録 「聖徳太子の遺跡―斑鳩宮造営千四百年―」
   橿原考古学研究所附属博物館, 2001年.
(4) 酒井龍一、荒木浩司、相原嘉之、東野治之「飛鳥と斑鳩―道で結ばれた宮と寺」、 ナカニシヤ出版, 2013.
(5) 奈良国立文化財研究所、奈良県教育委員会 「法隆寺防災施設工事・発掘調査報告書」法隆寺、1985
(6) 奈良文化財研究所「法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告」,2007
(7) 斑鳩町教育委員会「法隆寺若草伽藍跡歴史講演会」2006(平成18年)
(8) 平田政彦 「焼失壁画片出土の法隆寺若草伽藍跡西方の調査成果について」
   きのくに文化財,39号, pp.1-21, 2006.
(9) 平田政彦「法隆寺若草伽藍跡」橿原考古学研究所附属博物館図録,
   大和を掘る23, pp.32-33, 2005.
(10) 石田茂作 「法隆寺雑記帖」学生社, p.203, 昭和34年(1959)
(11) 浅野清 「古寺解体」学生社、昭和44年(1969)





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