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郡山城天守台発掘調査

 2014年9月19日、大和郡山市教育委員会による郡山城天守台発掘調査現地説明会が行われ、約780人が参加しました。大和郡山市教育委員会学芸員の十文字健氏の説明によると、今回の発掘調査により、豊臣秀長・豊臣秀保・増田長盛が城主を務めた、16世紀末の豊臣政権期に建てられたと考えられる天守の礎石列や金箔瓦の破片などが出土し、郡山城に天守が存在したことが初めて明らかになりました。
 
 発掘調査では東西・南北に井桁状に並ぶ礎石列が検出されました。礎石は大きい石と小さい石が交互に並んでいます。また礎石が抜き取られてないところでも根石(礎石のための基礎地業)が残っており、礎石の存在が分かります。井桁状の礎石列からその上に立つ建物が想定されます。城郭などの高層建築では、礎石列の上に長い横材を置き、その上に柱を立てます。従って説明図のように横木が井桁状に礎石の上に置かれています。 この図より中心部の身舎(もや)は3間×4間、それに2間幅の武者走りが付き、全体では7間×8間の規模で5層の建物が想定されます。 
 今回、付け櫓の発掘も行われ、地下に入口があり、そこから付け櫓に入り、天守台に向かったと考えられることが分かりました。

 これまで幻の天守と言われていましたが、発掘調査で礎石が現れ実際に天守が存在したことが明らかになりました。
しかし、その天守の存在期間は豊臣政権時代の僅かな期間に過ぎず、江戸時代には天守は存在しなかったようです。

<現地説明会>
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<説明版:検出した礎石列の写真>
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<説明版:建物想定復元図>
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<天守台への階段>
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<付櫓地下入口>
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<看板(奥から):武者走り、身舎(もや)、根石>
DSCF3429s.jpg

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<入口:梵字の切石あり>
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<天守台裾の調査>
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出土遺物

<金箔瓦破片>
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<大阪城と同范瓦>
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<聚楽第と類似瓦>
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郡山城略年表

1580年 筒井順慶が織田信長の命により築城
1583年 4月 天守が上がったとの記述(多聞院日記)
1584年8月 筒井順慶36歳で病死 筒井定次が継ぐ
1585年 筒井定次 伊賀に転封
1585年 豊臣秀長 大和、紀伊、和泉三カ国100万石で入城
1586年 豊臣秀長 郡山城築城
1591年1月 豊臣秀長 郡山城内で病死、養嗣子豊臣秀保が城主となる
1595年5月 豊臣秀保病死 
         豊臣五奉行の一人、増田長盛22万3千石の領主として入城
1596年 増田長盛 外堀普請を行う
1596年9月 京都伏見付近を震源とする大地震 天守と櫓が破壊される
1600年 関ヶ原の戦い 増田長盛除封
1615年 水野勝成郡山城入城
       以後、松平忠明、本田正勝など徳川譜代の大名が郡山城入城
1724年 柳澤吉里、大和、近江、河内、伊勢4か国、15万石余りで入城
       以後、明治維新まで柳澤家が藩主を務める。
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