FC2ブログ

布留の史跡 その4

布留の史跡 その4/4です。

厳島神社
 布留の高橋を渡って西へ歩き県道51号(天理環状線)の交差点に出たところに厳島神社が鎮座する。拝殿の奥に一間社、春日造り,檜皮葺の小さな神殿がある。祭神は市杵島姫命である。旧無指定村社で元禄12年(1699)「布留社縁起」に「本社を去ること四、五町、乾方に寺あり、良因寺という。鎮守神其寺内に座す。これ弁財天という。按ずるに良因寺の鎮守なるべし」とあり、良因寺の鎮守として勧請された神社であると考えられる。

<厳島神社>
IMG_5942s.jpg

IMG_5944s.jpg
<額>
IMG_5950s.jpg

<本殿>
IMG_5949s.jpg

--
良因寺
 良因寺は石上寺とも呼ばれ厳島神社近傍にあったことが発掘調査で明らかになっている。現在、西塔、堂ノ前、堂ノ垣内、堂ノ後などの小字名も残っている。この寺には遍昭が十数年住んでいたという。厳島神社境内の本殿の脇に良因寺の薬師堂が建っている。本尊は明治初年の火災で真っ黒にやけただれている。この本尊は古くから薬師如来とされてきたが観音立像らしく像高2.29mあり、弘仁期様式の作とみる。他に四体の四天王像も置かれていたというが現在はない。

<薬師堂>
IMG_5948s.jpg

遍昭
 遍昭(816~890)は良岑(峯)宗貞、良僧正、花山僧正とも号した。桓武天皇の皇子、大納言安世の子である。仁明天皇の寵愛を受け蔵人頭になったが、天皇の死去に伴って比叡山横川の円仁(慈覚大師)について出家し、天台を学んだ。その後京都山科の花山に元慶寺を創設し座主となり、光孝天皇の帰依を受け仁和元年(889)僧正に任ぜられた。
遍昭はまた歌人であり、六歌仙の一人として知られる。小倉百人一首の作者として、
     「天つ風 雲の通ひ路吹きとじよ をとめの姿しばしとどめむ」
の歌で親しまれている。

遍昭と小野小町の歌のやりとり
 遍昭が一時良因寺に住んでいた時、小野小町がある夕暮に訪ねてきて粋な歌のやりとりが「後撰和歌集」にある。
石上という寺に詣でて日の暮れにければ、夜あけて、罷り帰らむとて、とどまりて、この寺に遍昭侍りと人の告げ侍りければ、物いひ心みむとて いひ侍りける

石の上に旅寝をすればいと寒し苔の衣を我に借さなむ
                        小町
 世をそむく苔の衣はただ一重かさねばうとしいざふたり寝む    
                        遍昭
--
「花の色はうつりにけりないたずらにわが身世にふるながめせしまに」
                   小町(百人一首)

IMG_5939s.jpg

布留遺跡
 厳島神社前の県道51号線を越えて広い駐車場に入るとその北縁に「布留遺跡」という石碑がある。床のタイルには〇や□の赤い印があり、布留遺跡の遺構があることを示している。
布留遺跡はここだけでなく天理教本部のある一帯が中心地であり、1.5キロメートル四方に及んでいる。昭和13年(1938)以来の発掘で、縄文時代から古墳時代中期に亘る複合遺跡が検出されている。昭和13年の末永雅雄氏らによる発掘調査で出土した古墳時代前期を代表する土器は「布留式土器」と名付けられた。

IMG_5951s.jpg

IMG_5952s.jpg

IMG_5957s.jpg

IMG_5956s.jpg

<布留遺跡地図>
IMG_5955s.jpg

<天理教本部附近:布留遺跡>
IMG_5962s.jpg



プロフィール

青龍

Author:青龍
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
萩 (2)
訪問者数
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR