菖蒲池古墳現地説明会(2013.2.23)
2013年2月23日(日)に橿原市教育委員会による菖蒲池古墳発掘調査現地説明会がありました。古墳の築造の様子が分る非常に面白い説明会でした。
◆ 菖蒲池古墳の位置
菖蒲池古墳は橿原市菖蒲町にある7世紀中頃の方墳である。明日香村との境界にあり、甘樫丘から延びる丘陵の南斜面に作られている。植山古墳、宮ヶ原1、2号古墳と同じ丘陵にある。
<写真1 地図>

◆ 菖蒲池古墳は方形墳
平成21年度からの調査で東西30mであることは分っていたが南北の長さは不明であった。今回の調査で、北東隅の1段目の基底石が直角に曲がることを検出し南北の長さが確定した。これにより、1段目は30mの方形墳であることが確定した。また、掘割の底は非常に狭く約20cmの幅で、礫敷は検出されなかった。さらに、面白いことに掘割を埋めるための土の層が、はっきりとまだら状になっている様子が観察できた。説明者は土のうを積み上げたのかも知れないと言っていた。
<写真2 発掘現場>

<写真3 古墳北東隅1>

<写真4 古墳北東隅2>

◆ 外堤の上に大型建物
今回の調査で初めて、方形古墳の東堀割の外側の堤(?)上の外側で、版築状の盛り土や石敷が検出された。また、古墳築造後に掘割を埋めて建てられた東西15m(5間)、南北9m(4間)、柱間3m(10尺)の大型建物の柱穴跡が見つかった。この建物は藤原京時代の建物の様であるが、古墳を壊して建てたその建物の用途など新たな謎が深まった。さて、あなたならどう推理しますか?
<写真5 外堤外側石敷>

<写真6 外堤上建物柱跡>

◆ 横穴式石室
菖蒲池古墳の横穴式石室が今回特別に公開された。家型石棺が縦列に2基あることが確認できた。手前の石棺は黒漆を保護するため水量を一定量に保つために制御装置が付けられてあった。
<写真7 現地説明板>

<写真8 石室外観>

<写真9 石棺写真>

<写真10 石棺写真>

◆ 被葬者は…
蘇我倉山田石川麻呂は大化3年(649)年に嫌疑をかけられ、造営中の山田寺で興志ら親族一同とともに亡くなった人物である。菖蒲池古墳の築造時期が7世紀中頃と推定され、石室内に2基の家型石棺が縦列に置かれているため、二人が被葬者と想定する人も多いようである。さて、あなたの推理は?
◆ 菖蒲池古墳の位置
菖蒲池古墳は橿原市菖蒲町にある7世紀中頃の方墳である。明日香村との境界にあり、甘樫丘から延びる丘陵の南斜面に作られている。植山古墳、宮ヶ原1、2号古墳と同じ丘陵にある。
<写真1 地図>

◆ 菖蒲池古墳は方形墳
平成21年度からの調査で東西30mであることは分っていたが南北の長さは不明であった。今回の調査で、北東隅の1段目の基底石が直角に曲がることを検出し南北の長さが確定した。これにより、1段目は30mの方形墳であることが確定した。また、掘割の底は非常に狭く約20cmの幅で、礫敷は検出されなかった。さらに、面白いことに掘割を埋めるための土の層が、はっきりとまだら状になっている様子が観察できた。説明者は土のうを積み上げたのかも知れないと言っていた。
<写真2 発掘現場>

<写真3 古墳北東隅1>

<写真4 古墳北東隅2>

◆ 外堤の上に大型建物
今回の調査で初めて、方形古墳の東堀割の外側の堤(?)上の外側で、版築状の盛り土や石敷が検出された。また、古墳築造後に掘割を埋めて建てられた東西15m(5間)、南北9m(4間)、柱間3m(10尺)の大型建物の柱穴跡が見つかった。この建物は藤原京時代の建物の様であるが、古墳を壊して建てたその建物の用途など新たな謎が深まった。さて、あなたならどう推理しますか?
<写真5 外堤外側石敷>

<写真6 外堤上建物柱跡>

◆ 横穴式石室
菖蒲池古墳の横穴式石室が今回特別に公開された。家型石棺が縦列に2基あることが確認できた。手前の石棺は黒漆を保護するため水量を一定量に保つために制御装置が付けられてあった。
<写真7 現地説明板>

<写真8 石室外観>

<写真9 石棺写真>

<写真10 石棺写真>

◆ 被葬者は…
蘇我倉山田石川麻呂は大化3年(649)年に嫌疑をかけられ、造営中の山田寺で興志ら親族一同とともに亡くなった人物である。菖蒲池古墳の築造時期が7世紀中頃と推定され、石室内に2基の家型石棺が縦列に置かれているため、二人が被葬者と想定する人も多いようである。さて、あなたの推理は?