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発掘された飛鳥京跡と宮殿の性格

 2012年11月2日、奈良世界遺産市民ネットワーク主催の小笠原好彦氏による古代史講座「発掘された飛鳥京跡と宮殿の性格」が開催された。

 初めに飛鳥時代の区分の考え方であるが、592年~645年までを飛鳥時代とし、645年~710年を白鳳時代とする考え方があるが、592年~710年までを飛鳥時代と見た方がよい。

 次に飛鳥の領域であるが、大きな範囲の飛鳥(桜井西、磐余、畝傍までを飛鳥とする考え方)と岸説の狭い範囲の飛鳥(飛鳥川の東側で、岡の丘陵で囲まれた空間)があるが、岸説の狭い範囲の飛鳥で良いのではないか。

1. 発掘された飛鳥京の構造

奈良文化財研究所(奈文研)は、昭和31年から32年にかけて飛鳥寺の画期的な全面大規模発掘調査を行い、1塔3金堂式伽藍を見つけ、大きい成果を収めた。その後、昭和32~33年に行われた川原寺の発掘調査では、1塔2金堂式伽藍を見つけた。

昭和34年(1959年)に吉野分水工事のために伝飛鳥板蓋宮跡の第一次調査が行われることになった。調査は奈文研と橿原考古学研究所(橿考研)が合同で行い、飛鳥京内郭北端の塀の一本柱列(SA5901)を見つけた。その後、伝飛鳥板蓋宮跡の発掘調査は橿考研が行い、奈文研は平城京の発掘調査に移行した。
 
1961年に橿考研は内郭の東端の柵列(SA6101)を発掘し、1962年には内郭北側にある東西に長い建物跡(SB6205)を見つけた。1977年には内郭の外側の「エビノコ槨」と名付けられた南東部で大型建物が見つかった。

1979年には宮殿の正殿(前殿)(SB7910)が、2003年には内裏の南側の建物(SB0301)、2005年に北側の建物(SB0501)が見つかった。

 2.遺構から見た飛鳥京の変遷

 それまでの伝飛鳥板蓋の宮の発掘調査を踏まえ、小笠原氏等は1979年に土器編年に関する論文を発表している。また、奈文研の小澤毅氏は、「飛鳥京を3つの時期Ⅰ、Ⅱ、Ⅲに区分すべきである」という当時としては大胆な仮説を提唱した。この説はその後の土器の発掘で確かめられることになる。

Ⅰ期 舒明天皇岡本宮(630年造営、636年火災で焼失) 
 舒明の宮の建物は南北より西へ約20度振れている。また、発掘調査で焼土面が見つかり、636年に焼失したとする日本書紀の記事と合う。なお、斑鳩宮の建物も西へ約20度振れている。

Ⅱ期 皇極天皇板蓋宮(643年造営)
 Ⅱ期の建物は、帰国した遣唐使の上申を受けて、長安の王宮の建物のように真南北を向いている。当時、長安の都で生活し帰国した遣唐使の見聞が、朝廷の上層部に伝わった結果であると推測される。

Ⅲ期 斉明天皇後飛鳥岡本宮及び天武・持統の飛鳥浄御原宮
 Ⅲ期はⅡ期の建物に天武朝に建てられたエビノコ槨内の建物が追加されているだけであり、Ⅱ期と同じ場所に営まれている。エビノコ槨内の大型建物は太極殿と考えてよい。なお、天武天皇の時代になり、飛鳥京の領域が狭くなり、石神遺跡の方に建物を建てている。例えば、石神遺跡から陰陽寮があったことが出土した木簡から分った。天武天皇はすでに飛鳥浄御原宮にいるときから藤原京の造営に着手しており、そのため
斉明の後飛鳥岡本宮を宮として使用したと考えられる。

<歴代遷宮制の終焉>

 飛鳥京以前の天皇の宮は、天皇が変わる度に宮の場所が移るという「歴代遷宮制」をとっていたが、舒明飛鳥岡本宮以降は、宮が移動した後でも、また同じ場所に戻って宮殿が営まれた。飛鳥京は歴代遷宮制から固定された宮への過渡期であり、飛鳥以降は藤原京、平城京の固定された場所で宮が営まれることになった。

<飛鳥京遺構の柱根の桴穴(えつりあな)> 

 小笠原先生は講演の中でいつもオリジナルな見解を示されているが、今回も非常に興味深い話をされた。小笠原先生は各所の遺跡の柱根の桴穴えつりあな:筏を組むとき、縛り紐を通すための穴)に着目し、その柱の用材が、遠くから筏で運ばれてきたものかどうか分る。

 飛鳥京の柱穴には、桴穴があるものと、ないものの2種類があり、東一本柱列の柱根には桴穴があり、遠くから筏で運ばれてきたものである。飛鳥京の内槨は塀で囲まれており大量の木材を使用しており、飛鳥地域だけでは用材が足らず、朝廷の力によって、遠くからもかき集めたのであろう。

 なお、藤原京では大量の用材を使用し、近江から淀川、大和川を経由して運ばれてきたものがあり、桴穴のあるものが多くある。

 日本最古の桴穴のある柱根は田原本の唐古遺跡で見つかっており、径70cm~80cmもある。
 
平城京では10万人もの人々が暮らすための邸宅を作るために、大量の木材を用いたため、地域を越えて集めた 木材が多く、桴穴のある柱根が多い。

3. 『万葉集』で詠まれた飛鳥の神奈備山

 飛鳥京で歴代遷宮をやめなぜあの場所に固定したかを考える場合、藤原京では香具山が神奈備山であるが、飛鳥京にも神奈備山があったのではないか考える。
 天武天皇の崩御時に皇后が作った歌に、「神丘の山の黄葉」のことが詠われている。飛鳥浄御原の宮から真正面に見える神奈備山は、雷丘ではなく、橘寺付近のミハ山であり、この山を神奈備山であるととみなしており、歴代遷宮をやめ飛鳥京の場所を固定したのは,神奈備山が見える場所であったからである。

なお、飛鳥の神奈備山のことについては、岸俊雄氏「古代史からみた万葉歌」(学生社、1991年)の著書において指摘されている。

古代史は本当に面白い、皆さん、遺跡見学の際、遺構の柱根の桴穴に注目しょう。
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