FC2ブログ

布留遺跡について

 2012年5月19日天理大学付属天理参考館にて、関川尚功氏の講演「ヤマト政権の生産体制を探る―渡来系工人と玉造集団からみた布留遺跡―」があり、古墳時代の「布留」(ふる)という地域の重要性について次のような話がありました。

 奈良県には1万基近く古墳があるが、その中で天理市に約1600基(竜王山古墳群に1000基ほどある)があり、県下で最多である。

 昭和13年8月の布留遺跡の発掘調査で、弥生時代の土器より新しい古墳時代の土器が初めて出土し、9月の考古学雑誌に調査報告が掲載され、「布留式土器」と命名された。布留遺跡はヤマト政権の中枢地域の北域にあり、布留川の扇状地に造られた東西1.5キロぐらいの広さの遺跡である(纒向遺跡も東西1.5キロであるが、尾根が多く谷も多くあり平地の面積は布留遺跡より少ない)。

 布留遺跡の北側の高瀬川に沿って東大寺山古墳(古墳時代前期:120m)、和爾下神社古墳、赤土山古墳(前期)の大型古墳が集中している。東大寺山古墳は東西と南北の交通の要衝の地(現名阪国道が通っている所で、東国への出口、南北の道が交差する所)にあり、弥生時代の高地集落と銅鐸が出土している。これより北には佐紀古墳群にいたるまで大きな古墳はない。

 ヤマト王権の中枢部は桜井市の茶臼山古墳(前期200m)から西山古墳(180m)に至る領域であり、その中心に纒向遺跡がある。布留遺跡はこのすぐ北にある。

 石上神宮の禁足地から七支刀や管玉、勾玉など古墳時代前期古墳から出土するものと同様の遺物が出土している。遺物からみて布留遺跡の重要性が分る。桜井市の忍坂の池から鉄さい、鉄の鉾が出土し、そこに大伴氏の武器庫があったと考えられるが、石上神宮に武器庫が移され物部氏が、ヤマト政権の北側の交通の要衝を守っていたと考えられる (奈良盆地の大和の豪族地図:岸俊男氏参照)。王権のある地域の北側に物部氏、南に大伴氏を置き王権の守りとした。

 また、日本書紀に第20代安康天皇が石上穴穂宮(古墳時代中期中頃)、第24代仁賢天皇が石上広高宮(古墳時代後期初め)の記述があり、石上地域に王宮があったと記述されており、布留遺跡から見て宮跡の信憑性を高めている。また、雄略朝の記事に「‥石上の高抜原にて、呉人に饗へたまふ」という記事があり、中国の呉の人が石上地域へ来たことの信憑性が高まると述べられました。

 その他、5世紀の時代状況と渡来人の発生や産業拡大・高度成長の時代と布留遺跡玉生産の体制と布留遺跡についてのお話がありました。
プロフィール

青龍

Author:青龍
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
萩 (2)
訪問者数
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR