国宝当麻寺西塔は、平成28年6月4日から平成32年12月31日までの予定で、保存修理工事を行っています。
今回の修理は、明治44年(1911)から大正3年(1914)にかけて行われた修理以来の大修理で、隅棟の瓦の解体から始め、屋根瓦をすべて取り外して、打音検査などをして破損状況をチェックし、使えないと判断された瓦は新しく製造された瓦に置き換えられました。 西塔には約16000枚の瓦が使われていました。
大正時代の修理のとき、大半の瓦は取り替えられ、古い瓦は三重目の屋根の南面に集められました。 軒平瓦は平安時代と室町時代、軒丸瓦は室町時代、平瓦は江戸時代と大正時代、丸瓦は大正時代のものが葺かれていました。また、境内の他の建物(本堂、金銅、講堂、東塔)の瓦も使われていました(「現場説明会配布資料」参照)。
大正時代の鬼瓦に、奈良市般若寺町 早川勇次郎製造の銘がありました。鎌倉時代の鬼瓦には銘を入れる習慣はなかったようです。
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三重南面屋根瓦

平安時代の軒平瓦

露盤と相輪

軒丸瓦



平安時代軒平瓦

鎌倉後期の鬼瓦

鎌倉時代の鬼瓦(銘は入れず)
2重目屋根
大正時代の鬼瓦




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3重目からの風景(もう見れない)


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當麻寺境内地図






竹藪の中の国宝・東塔

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當麻寺現場見学会報告終わり
西塔の相輪
西塔の相輪は下から露盤(ろばん)、伏鉢(ふくばち)、受花(うけばな)、宝輪(ほうりん)、水煙(すいえん)、竜車(りゅうしゃ)、宝珠(ほうじゅ)で構成されており、各部材を檫管(さっかん)がつないでいます。多くの塔の宝輪の数は9個ですが、當麻寺東塔と西塔は8個で大変珍しいです。相輪の長さは7.74mで, 塔総高さ24.4mの約3分の1です。
各部材は鋳造されており、水煙と宝輪に特徴があります。 水煙は意匠から創建当初のものと考えられています。 蓮蕾(れんらい)と忍冬文(にんどうもん)の意匠が使われ、2枚を十字に組み、砲弾型の檫管に上から取りつけられています。
今回現場において,水煙が公開され展示されていました。水煙1枚で40kgあります。宝輪は30kgあります。露盤の重さは216kgですので、相輪の総重量は約1tです。その重さが屋根上にある露盤にかかっています。
舎利容器
西塔の心柱は心礎に据えられ、屋根上の相輪の上まで、つながっており、水煙を支えている砲弾型檫管内部の最頂部まで出ています。今回、心柱最頂部に銅筒を納め、その中に金銅製の舎利容器、銀製の舎利容器、金製の舎利容器が入れ子になって収納されていました。金製の舎利容器には舎利が収められていました。銀製容器の中には、水晶玉や水晶製の六角五輪塔、和同開珎を含む皇朝十二銭、建保や明和の修理で納められた文書、大正修理の奉納物がありました。
奈良新聞の記事によれば、今回の修理で見つかった舎利容器は奈良国立博物館に保管され、その複製品が西塔心柱最頂部に奉納されるとのことです。
今回の見学会参加者には見学終了後、記念品として舎利容器の写真(本ブログに掲載)が印刷された郵便はがきが配られました。葉書には平成31年(2019)2月19日((火)〜3月14日(木)まで、奈良国立博物館にて、金・銀・金銅製舎利容器公開が行われるとの案内文が記載されていました。
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西塔相輪説明

露盤の現場説明パネル

露盤(大正時代)

上から見た露盤穴

水煙

砲弾型檫管

水煙(南北方向西面)

水煙(東西方向北面)

宝珠と竜車

小型檫管(竜車と宝珠を取付け)


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心柱最頂部

心柱上部を刳り抜いて舎利容器格納(配布パンフレットより)
心柱最頂部に木栓あり 蓋を外すと銅製円筒型容器あり

記念葉書掲載写真(金銅製舎利容器→銀製舎利容器→金製舎利容器)

舎利容器奉納物のリスト(配布パンフレット掲載)

現在保存修理中の當麻寺の国宝・西塔の現場見学会が、2018年12月16日、17日の2日間、奈良県教育委員会事務局文化財保存事務所によって開催され、行ってきました。 来年1月には工事用足場が解体される予定なので、間近で塔の心柱や組物、屋根、水煙等を見られるのは、これが最後です。今回の修理では、1914年(大正3年)以来、100年以上経って傷んだ屋根瓦の葺替えと基壇の修理を行い、露盤を新調しました。そして、心柱最頂部から、白鳳時代の690年頃に製作されたと推定される、舎利容器が出てきて、新聞紙上で大きく報道され話題となりました。
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国宝・西塔(白鳳時代創建、現在の塔は平安初期再建か?)
現場パネルより

境内の當麻寺縁起説明板

修理前の西塔の様子


今回配布されたパンフレットの表紙

工事用足場で囲まれた現在の西塔

初重軒下組物







現場パネル説明図



現場パネル(お堂の組物比較)


二重目の屋根

三重目の屋根(南面)

心柱
現在の心柱は3本の木でできています。一番下の木はケヤキを使用しており、曲がっているため、心柱を囲う板の幅が長軸と短軸とで違います。 一番下はケヤキ(平安時代)、真中は桧(大正時代)、最頂部は杉(鎌倉時代)でできています。


現場のパネル説明図


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東塔(左)と西塔(右)

石光寺(せっこうじ)
石光寺は今から約1300年前に、天智天皇勅願により役小角によって開基された名刹です。1991年に弥勒堂改築に伴う発掘調査で、日本最古の白鳳時代の石仏(弥勒像)が出土し、大きく報道されました。 境内には奈良時代前期の塔心礎が残っています。盛時は相当大規模な伽藍配置の大きなお寺でした。
石光寺は別名が染寺とも呼ばれ、中将姫ゆかりの「染の井」と「糸掛桜」があります。
また、関西花の寺霊場の第20番札所となっており、寒牡丹、春牡丹、シャクヤクなどが季節に応じて咲き乱れる、とても美しい花の御寺です。
石光寺標柱

山門

花(芍薬、牡丹)

砂(○と□)

弥勒堂

出土石仏の説明

頭部

台座

弥勒石仏の写真

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塔心礎と舎利孔の写真

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中将姫ご縁の「染の井」と「糸掛桜」




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境内の花









鳥谷口古墳
傘堂を西に行くと西大池を過ぎた二上山への登山道脇の丘陵の頂上付近に鳥谷口古墳があります。 この古墳は、飛鳥時代終末期の古墳で、一辺7.6mの方墳です。墳丘は版築で腰高に築かれており、山裾部には人頭大の貼石が葺かれていたそうです。
墓室は横口式石槨構造で、内部には漆塗り木棺が収められていました。底石や北側壁石に家形石棺の蓋石が使用されています。
この古墳は改葬墓の可能性が高く、大津皇子の墓であると考える説もあります。墳丘から明日香や多武峰、畝傍山などが一望できとても景色の良い所です。
それにしても、謀反の疑いで死を賜った大津皇子の墓にしては、転用の蓋石を使った石槨に葬られるなど、余りにも不遇の身が憐れを誘います。 伊勢の斎王であった、姉大来皇女の鬼気迫る、次の万葉歌が千数百年の歳月を越え、私たちの心をうちます。
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大津の皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大来皇女の哀傷して作らす歌二首
「うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む」 (巻2-165)
「磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに」 (巻2-166)
「神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに」 (巻2-163)
「見まく欲り 我がする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに」 (巻2-164)
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鳥谷口古墳(奈良県指定史跡)説明板

墳丘

墳頂近く

史跡指定

石室が保護

内部の石槨

大和盆地

畝傍山