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古事記と古代史・考古学

2012年12月1日、関西文化財保存協議会主催、奈良世界遺産市民ネットワーク共催の
以下の講演があった。

1)平林 章仁 「『古事記』から歴史を読む」
 
2)小笠原 好彦 「考古学からみた『古事記』と『帝紀』と葛城氏」    講演項目は以下の通り。
     1 井上光貞氏による『帝紀』の検証
     2 「帝紀からみた葛城氏」論文(井上氏:平凡社1956年)と葛城襲津彦
     3 馬見古墳群と葛城襲津彦
     4 葛城氏繁栄と歴史的背景
     5 葛城氏衰退と雄略大王
  
 井上論文では帝紀の信憑性について倭の五王(讃・珍・済・興・武)を検討し、「仁徳または履中以降雄略まではその実在性が外的証拠によって確かめられる」としている。そして、神功皇后六十二年条の葛城襲津彦は、百済記による「沙至比跪」とみなされ、実在が確かめられる最初の氏族である。
    
 小笠原先生は、講演プリント中の日本書紀仁徳四十一年、神功皇后五年、六十二年、応神十四年、十六年の葛城襲津彦(複数人いた。)に関する記述及び葛城氏の系図を説明され、葛城氏が雄略に滅ぼされるまで、大王家と葛城氏が密接な関係にあったと話された。そして葛城氏に関する文献の記事や馬見古墳群の古墳の年代、形状、出土品等から検討した結果、各古墳の被葬者について、次のような独自の見解を示された。

       巣山古墳=>建内宿祢(実在の可能性あり、葛城襲津彦の親)
       築山古墳=>葛城襲津彦A
       宮山古墳=>葛城襲津彦B(百済記記載の葛城襲津彦)
       新木山古墳=>葛城襲津彦C(磐之媛の父)
       島の山古墳=>葛城高額媛(かつらぎのたかおかひめ、神功皇后の母)
 小笠原先生がこの講演ではじめて提起された。この古墳の埋葬者は出土品からみると葛城氏出身の女性である。神功皇后の力を考えないとこの古墳は理解できない。200人の巫女に腕輪 車輪石を並べさせた様なことが想像される。
       川合大塚古墳=>葦田宿祢
       城山古墳=>玉田宿祢
       屋敷山古墳=>飯豊女王

 なお、馬見古墳群に葬られているのは葛城氏及び葛城氏と同族関係の氏族の古墳であり大王墓ではない。葛城氏は仲哀大王以降、大王家と外戚関係にあったことは帝紀から分る。そして、葛城襲津彦は神功皇后の時代から海外に遠征していた。葛城氏は大和盆地の大和川とその支流である高田川、葛城川、曽我川、飛鳥川、寺川等の河川管理などで大きな経済力を貯えた。また、南郷遺跡に見られるように、海外の工人から技術を導入し工芸品や鏡などの生産を行い莫大な蓄財を行い、大きな古墳を作る力を持った。
 
 馬見古墳群の古墳を大王墓であるとする研究者がいる。また、橿原考古学研究所発行の馬見古墳群に関するパンフレットは大王墓の可能性について述べている。しかし、馬見古墳群の古墳は、帝紀、古事記、日本書紀、延喜式に天皇陵(または皇子、皇女の御陵)として記載されたものはない。もし、大王墓とするなら、記述があるはずである。だから、この古墳群は葛城氏およびそれと同族関係または擬制的同族関係にある氏族の墓であると理解すべきである。

また、河内王朝説があるが、5世紀代の仲哀~雄略に至るまで葛城氏は他に並び立つものがない大氏族であり、河内には大氏族は存在しなかった。従って河内王朝説は成立せず、大和政権の葛城氏が中心となり河内の大古墳を作ったと考えられる。

巨勢山古墳群築造氏族は?

2012年4月10日奈良県文化会館にて奈良世界遺産市民ネットワークによる小笠原好彦先生古代史講座「御所市巨勢山古墳群を築造した氏族は?」がありました。 

講演内容は次の通りです。
1.巨勢山古墳群と室宮山古墳
2.葛城氏勢力と古墳群
3.巨勢山古墳群の規模・分布と発掘した古墳
4.葛城氏の衰退と蘇我氏の台頭
5.「日本書記」と蘇我氏の動向

巨勢山(こせやま)古墳群 

 御所市にある巨勢山古墳群は、日本でも最大規模の約700基からなる群集墳であり、五世紀中頃から六世紀代にかけて多くの支群に分れて作られた。1970年代に開発によって約100基が壊されたが、現在約600基が残っている。大半は円墳であるが、全長40メートル前後の前方後円墳や方墳も含まれている。これまでの調査で木棺直葬と横穴式石室の埋葬遺構が見つかっており、副葬品には鍛冶具や金銅製歩揺付飾金具、装飾付須恵器などが出土しており、支群で性格が異なっている状況もある。
これまで、どうしてこれだけ多くの群集墳が作られたのかについては、余り研究が進んでおらず、葛城の地にあるので葛城氏が作ったという程度に考えられていた。しかし、葛城氏は「日本書記」雄略記によると、5世紀の終わりに円(つぶら)大臣のときに、雄略天皇によって眉輪(まよわ)王とともに滅ぼされたとあるので、群集墳は6世紀代の古墳もあり時代が合わない。滅ぼされた葛城氏が群集墳は作れないという疑問が生じる。

宮山古墳(室大墓)との関係 
巨勢山古墳群のすぐ下に、五世紀前半に築造された全長238メートルの宮山古墳があり室(むろ)の大墓とよばれている。宮山古墳を葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)(井上光貞氏が「百済記」にある実在した人物とした)の墓とするならば(白石説)巨勢山古墳群は葛城氏に関係した群集墳であるという可能性が高まるが、葛城氏は五世紀末に滅亡する。それではこの大群集墳はどのような有力氏族によって築造されたのか改めて考えてみる必要がある。

巨勢山古墳群の地域と蘇我氏 
「日本書記」神功皇后五年条に、葛城襲津彦が新羅から連れ帰った人を、桑原、忍海、佐糜、高宮に配したという記事があり、渡来系氏族の漢人の祖先にあたるとあります。
ここも葛城氏の本拠地の一部であった。葛城氏は武内宿祢を祖とする氏族で、他に蘇我氏、平群氏、巨勢氏、紀氏が同祖である。五世紀末に葛城氏が衰退した後、葛城の地を継いだ有力氏族として蘇我氏があるのではないか。そして、蘇我氏が飛鳥とは異なる葛城南部の
地域を葛城氏から継承し、この地域に群集墳を築造した可能性がある。そして、巨勢山古墳群こそ六世紀前半に蘇我氏が築造した古墳群といえるのではないか。

河合町佐味田宝塚古墳と家屋文鏡の世界

2011年11月1日奈良世界遺産市民ネットワーク主催で小笠原好彦先生の「河合町佐味田宝塚古墳と家屋文鏡の世界」と題する講演がありました.

大和の古墳時代は葛城氏を理解しないと分らない.馬見古墳群の一番古い古墳である新山古墳は全長126mの前方後方墳である.最古のものが前方後方墳であるから馬見古墳群は大王墓ではなく葛城豪族の墓ではないか.
1885年(明治18年)に鏡34枚,ブレスレット,車輪石等が多数出土したが,大塚陵墓参考地とされ宮内庁が出土品を保管している.

河合佐味田宝塚古墳は全長111.5mの前方後円墳である.1881年(明治14年)に盗掘されている.鏡36枚,珠,車輪石等多数の出土品や鰭付円筒埴輪列もあった.

鏡の中に家屋文鏡があり4つの建物が描かれている.3つの建物の屋根には一対の鳥(鳳凰)が描かれている.左の建物は衣笠がかかった高殿である.このデザインは中国せっ江省で見つかった「屋舎人物画像鏡」の建物が3つの図とよく似ていると森浩一氏が記者を呼んで発表した.中国では四は死と発音が似ており,建物は3つであるのではないか.中国の武氏祠堂に描かれている神仙思想(死後は神仙界へ行けるよう)に由来している.中国嘉祥県(かしょうけん)武氏墓群石刻にも神仙思想が描かれている.

このような出土品からも葛城氏の豪族としての凄さがわかるような気になります.

以上のような話があり大変興味深かったです.


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