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平等寺

 平等寺は大神神社境内を出て、山辺の道を金屋の石仏・海柘榴市方面へ5分ほど南下した所にあります。今回の「菅笠日記」を巡るウォーキングコースの道沿いに、大きな山門があり容易に平等寺であることが分かりました。本居宣長は平等寺のことについては日記に書いていませんので、恐らくもっと西側の下の道を通って海柘榴市に行ったと考えられます。

<写真 平等寺山門> 
 扁額には三輪山と墨書、右柱に平等寺、左右石柱に「一相平等」、「三輪清浄」と印す


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 廃仏棄釈以前は、三輪山には三輪明神、平等寺、大御輪寺が並び立ち中でも平等寺は中世近世を通じて実質的な神宮寺として一山の実権を握り、社務を管掌していました。  三輪山の室町時代の古絵図の画像をご覧ください。左端から桧原神社、大御輪寺(下の方)、大神神社、平等寺が描かれており、三輪山山麓が寺社の一大領域であったことが伺えます。

<三輪山の古絵図>
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<大神神社宝物館パンフレット表紙より>
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【聖徳太子開基の寺】
 寺伝では581年に聖徳太子が三輪明神に戦勝を祈願し、勝利の後に11面観音を彫んで寺を建立し大三輪寺と称したと伝えられています。

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<聖徳太子像>
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【中興の祖は慶円
 鎌倉時代に慶円が三輪別所を平等寺と称したのが始まりです。鎌倉末期には真言宗灌頂(受戒)の道場として栄えました。最盛期には12坊舎の大伽藍で、東西500m(三町)、南北330m(四町半)という広大な境内がありました。室町、江戸時代には醍醐寺三宝院、興福寺とも関係し修験道の霊地としても栄えました。

【島津の落ち武者】 
 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で敗れた薩摩藩一行は敵中突破をはかり、千人を越す兵は名張あたりでは80名となり、寺伝によれば、藩主島津義弘公主従13名が平等寺で70日間かくまわれ、無事帰国されたとあります。修験道のネットワークを利用して匿ったのではないかと考えられます。

【廃仏稀釈】
 明治元年の神仏分離令が出ると各地で廃仏棄釈が行われ、平等寺も大御輪寺と同様廃絶しました。石上神宮近くにあった法隆寺と同等の寺域を有した内山永久寺は、今日廃仏棄釈で廃絶したままです。

【復興
 明治10年、翠松寺として再建され、その後住職の丸子孝法さんの勧進托鉢の努力があり、廃仏棄釈より100年目の昭和52年に「平等寺」として改名し、以前の名称を復活しました。
平等寺は三輪山の奥の院に位置し、山号は三輪山、宗派は曹洞宗で本堂、二重塔、鐘楼などを備え、11面観音を本尊とする、自然豊かな美しい、落ち着いた素晴らしいお寺です。


<左側に本堂、右奥に二重塔>
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<12羅漢像>
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