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斉明天皇の神まつりと吉野宮を体感する その4/4

  バスは宮滝を出て、吉野川が大きく湾曲する菜摘を過ぎ、紙漉きの里国栖(くず)に入り、割箸の里、南国栖に入りました。南国栖の吉野川支流の断崖絶壁に、天武天皇を祀る浄見原神社があります。 浄見原神社では毎年旧正月14日に、国栖の翁たちによる国栖奏が催行されることで有名です。 
 
日本書紀応神天皇十九年条冬十月一日に以下の記事があります。

 『天皇が吉野宮においでになった。国栖人が醴酒を天皇に奉り、歌を詠んだ。歌が終わると、半ば開いた口を掌で叩いて仰いで笑った。いま国栖の人が土地の産物を奉る日に、歌が終わって口を打ち笑うのは上古の遺風である。国栖は人となりが純朴であり、常は山の木の実をとって食べている。また、カエルをを煮て上等の食物としており、名付けて毛瀰(もみ)という。…』

 応神天皇の時代から天皇が吉野へ行幸され、吉野の国栖人たちは舞と歌と食物を献上していたことが記されています。
 国栖の地は、古くから道が開かれ、地理的には伊勢、熊野へ抜ける道があり、また大和政権の宮へ近く、交通の要衝にあるともいえます。

 大津の宮を出て、吉野に隠棲していた大海皇子は、吉野で兵を挙げ、大宇陀から伊賀に出て、大海皇子の乳母の本貫地の美濃に行き、美濃・尾張の軍勢を集め、不破の関を押さえ、大津宮に攻め入り勝利して、飛鳥へ戻り、 飛鳥浄御原の宮で、天武天皇として即位しました。大海皇子が、吉野を少人数で発ったときには、国栖の青年たちが、大海皇子や皇子達の輿を担いだと言われています。大海皇子が吉野で敵の探索にあったとき国栖の人たちが匿ったという言い伝えがあり、隠れた断崖絶壁に祠を造り、天武天皇をお祀りしています。

なお、天皇が新しく即位する大嘗会においては、貞享4年(1687)第113代東山天皇に至り、大嘗会が再興され、国栖奏が奏上されるようになった。まもなく催行される今上天皇の大嘗祭においても、宮内省楽官による「国栖の古風」が奏されると思われる。

なお、国栖の翁による国栖奏は毎年、橿原神宮で奏上されている。

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吉野 南国栖の清流
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天皇渕1
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新説明板
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天皇渕2
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浄見原神社(祭神 天武天皇)
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斉明天皇の神まつりと吉野宮を体感する その3

 
宮滝 (奈良県吉野郡吉野町宮滝)

 比曽寺を出たバスは、吉野川に沿って走る国道169号線に乗り、まもなく、三角形の美しい形をした妹山、そのふもとにある大名持神社を過ぎて、さらに約6km走ると、風光明媚な宮滝に出ました。 学生の頃には吉野川の河原の岩に腰掛けて、喜佐谷からほとばしる象(きさ)の小川の「夢のわだ」を眺めながら、犬養先生の万葉の朗唱と歌の解説に聞き入りました。若かりし頃の犬養先生もきっとこの景色を学生たちに見せたかったに違いありません。

今回も、柴橋から川面を覗くと、藍も変わらず青と緑のエメラルドグリーンが白い岩や砂洲に映え、とても印象的でした。

宮滝 「夢のわだ」

「我が行きは 久(ひさ)にはあらじ 夢のわだ 瀬にはならずて 淵にもあらぬかも」
 大伴旅人 (巻三ー三三五)

『「夢のわだ」は、象(きさ)の小川が吉野川にそそぐ、大きな岩にかこまれた深淵のところといわれる。大伴旅人が大宰師となって九州に赴任したのは神亀5年(728)頃、梅の宴を催したのもその頃である。「他行(九州滞在)は長いことではあるまい。あこがれの夢のわだよ、浅瀬にはならないで、淵のままであってくれ」との心持ちである』(犬養孝著「万葉の旅(上)」p186、平凡社)。

夢のわだ、釣人も見える。
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 このような唯一無二の美しい風景を愛で、歌を詠み、船を浮かべて、宴などをするために、飛鳥浄御原の宮から宮滝へ、持統天皇が32回も来られたことに納得してしまいます。奥飛鳥から芋峠を越えるか、多武峰に出て鹿路峠を越えると、宮滝まではそんなに遠い距離ではありません。 最近では、宮滝で温泉が湧いたこともあり、持統天皇は湯に浸るために、唐の楊貴妃のように何回も行幸されたのではないかと言う説も飛び出す始末です。

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夢のわだ(大雨の時は谷川が激流になる)
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激(たぎ)つ河内

「山川も依りて仕ふる 神ながら 激つ河内に舟出せすかも」
柿本人麻呂(巻一ー三九)

吉野川両岸の絶壁にかかる柴橋から川面を見ると上流から激流が流れ来て、激つ河内に舟がこぎ出した様を想起する。今は、上流にダムができ川の流れは穏やかになっているが、柿本人麻呂の時代はたぎっていたに違いない。

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柴橋
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日本書紀に登場する吉野宮

1. 日本書紀には、応神天皇19年条に天皇が吉野に行幸し、国栖奏を奏上された記事が掲載されています。また、雄略天皇2年条、4年条にも天皇の行幸記事が見られます。 古来より吉野は神仙境とみなされ天皇が行幸される天皇家ゆかりの土地でした。

2. 斉明2年(656)には吉野宮造営記事が見られます。また、斉明5年(659)に、斉明天皇の行幸記事が掲載されています。
大海人皇子は天智10年(671年)に、剃髪後、大津宮を出て吉野宮に入ります。672年には挙兵し、壬申の乱が勃発します。
同年、大海人皇子は飛鳥浄御原の宮で即位し、天武天皇となります。

宮滝遺跡の発掘調査

 宮滝遺跡の第1次調査は末永雅雄氏によって昭和5〜13年(1930〜1938)に初めて行われました。この調査で宮滝遺跡は縄文時代、弥生時代から続く遺跡であることが分かり、昭和32年(1957)に国史跡に指定されました。その後、昭和50年(1975)から第2次調査が始まり、それ以来現在まで70次に渡って調査が続けられ、斉明、天武・持統、聖武朝の宮殿跡が次々と見つかっています。 宮滝の宮殿遺跡は、現在の所、飛鳥時代以降、4期に区分されます。

 第1期(7世紀中頃): 吉野資料館に近い宮滝遺跡中央部で、斉明朝の園地や建物跡が見つかっており、復元模型が資料館に 展示されています。

 第2期(7世紀後半から8世紀初): 天武・持統朝の吉野離宮跡は、斉明朝の遺跡範囲を包含し、さらに西に拡大し、大規模となっている。持統天皇は31回も行幸している。

 第3期(8世紀前半〜末):  奈良時代に、聖武天皇が行幸した吉野離宮跡で、芳野監の役所があったとされる場所。この場所は、吉 野川近くの、宮滝遺跡西部で、末永氏が第一次調査で石敷き遺構を発見した所です。象山が真近に迫って見える場所で、石敷き遺構や石組溝が検出されている。平成27年度から行われている、ごく最近の調査では、宮殿級の大型掘立柱建物(間口9間×奥行5間=23.7m×9.6m)1棟と掘立て柱塀跡を検出しました。

第4期(9世紀〜10世紀) : 宇多上皇、菅原道真らと宮滝へ行幸。

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宮滝遺跡最大規模建物遺跡(平成29年度第69次調査)
赤いテープが大型建物跡
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右手に象山が迫る。吉野川がすぐそば。
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第一次調査石敷き遺構写真
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宮滝遺跡発掘調査地図
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持統朝頃の園地遺構復原(吉野資料館)
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斉明天皇の神まつりと吉野宮を体感する その2

世尊寺(曹洞宗)  奈良県吉野郡大淀町比曽762

  有史会のバスは、明日香村を出て、吉野宮滝に向かう途中に、世尊寺に立寄りました。世尊寺の前身は、飛鳥時代に聖徳太子によって創建されたと伝わる比曾寺(国史跡)です。 「日本書紀」 欽明天皇14年条に、「泉郡の茅渟の海で、放光する樟を見つけて取り出し、天皇に献上した所、画工に命じて、仏像二体を造らせた、これが今、吉野寺にある」とあります。これは、仏像造像の最古の記事です。

 比曾寺は、顕真の聖徳太子建立46寺の一つであり、吉野寺、比蘇寺、現光寺とも呼ばれ、奈良時代、平安時代には、清和・宇多天皇が行幸され、藤原道長も参詣され、南北朝時代には後醍醐天皇も行幸されました。

 比曾寺の伽藍配置は薬師寺式伽藍配置を成し、東塔は聖徳太子が父用明天皇のために、西塔は推古天皇が、敏達天皇のために建立したと伝わります。両塔は早い時期に焼失し、東塔のみ室町時代初期に再建されましたが、豊臣秀吉によって京都伏見へ移築され、さらに江戸時代には、徳川家康によって、近江三井寺へ移され、現存しています。

渡来僧の道璿は晩年、比曽山に入り、禅を伝えました。 また、神叡は20年間、比曽寺に在住して三蔵を修得しました。 鎌倉時代には、西大寺の叡尊が滞在して真言律宗の布教に務めました。

 金堂には本尊の放光する阿弥陀如来が祀られ、また、奈良時代に造像された高さ2.2mの放光十一面観音像が安置されているそうです。 また、境内には寄棟造りの太子堂があり、聖徳太子孝養像が安置されていますが、これらの像も拝観せず残念でした。

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比曾寺跡 (国史跡)
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猿の彫刻(伝左甚五郎作?)
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伽藍配置図
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比曽寺説明
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神社鳥居
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参道
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東塔跡
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礎石
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西塔跡
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礎石
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鐘楼
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本堂
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太子堂
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説明
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十三重石塔
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芭蕉句碑

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斉明天皇の神まつりと吉野宮を体感する その1

2019年9月15日橿原考古学研究所の有史会のバス旅行で、研究所の重見 泰先生の案内の下、久しぶりに晴天下の飛鳥と吉野・宮滝の遺跡を巡って来ました。 コースは以下の通りです。

 近鉄橿原神宮前駅⇒ミハ山→飛鳥稲渕宮殿跡⇒(稲渕へ)男綱→飛び石→南淵請安墓→飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社⇒キトラ古墳壁画体験館「四神の館」⇒比曽寺跡⇒吉野歴史資料館(橿考研出張企画展「発掘 古代の宮滝遺跡」)→宮滝遺跡→桜木神社⇒浄見原神社⇒近鉄橿原神宮前駅

飛鳥の神名火(「ミハ山」説)
  天武天皇が飛鳥浄御原の宮から眺めた神名火山はどの山か?かって、岸俊男氏は、飛鳥京の南正面に位置し、「三輪山」と発音が似た、小字「ミハ山」を神名火山と見なしました。この山は三角形の形の良い山で、山頂付近には大きな岩座がむき出しになっていますし、飛鳥川上流に位置する点でも神名火山の条件に合致するとのことです。 地元では俗称「フグリ山」と呼ばれています。

持統天皇は天武天皇が崩御した時、次の歌を詠んでいます。

天皇の崩じたまひし時に、大后の御作りたまひし歌一首
『 やすみしし、我が大君の 夕されば 見したまふらし 明け来れば 問ひ たまふらし 神岳の 山の黄葉を 今日もかも
問ひたまはまし 明日もかも 見したまはまし その山を 振り放け見つつ 夕されば あやに哀しみ 明け来れば うらさび暮らし  あらたへの 衣の袖は 乾る時もなし 』
(万葉集 巻 第二 159)

冬の川にかかる橋のたもとでバスは停車し、徒歩で祝戸荘方面へ向かいました。都塚古墳が左手中腹に見えます。私にとっては何十回も来ているおなじみの場所ですが、重見先生のお話を聞いていると、何か古代史の歴史の舞台に立った気にさせられます。FMラジオを忘れて来たので、今回は近くでお話をききました。

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神名火山=ミハ山
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祝戸荘・稲渕方面
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都塚古墳
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稲渕宮遺跡

 飛鳥川上流の稲渕川の西岸の地に造営された宮殿遺跡である。1977年(昭和52年)の発掘調査で見つかった、宮殿に関連した掘立柱建築群と中庭に大形の川原石がびっしりと敷き詰められた遺構が発見された。南側に四面庇付きの間口6間以上、奥行4間以上の正殿(東西棟)、中庭を挟んで北側に間口8間以上、奥行4間の後殿(東西棟)、東側に脇殿とみられる南北棟が2棟コの字型に配置されている。

明日香村の現地の説明板の地図の方角が何故か右側が北となっているので注意が必要である。

 この遺跡は出土した土器や硯から7世紀中頃の遺跡であり、653年に中大兄皇子らが難波から飛鳥にもどったときに造営された飛鳥川辺の宮と見なす見解が有力である。

なお、奈文研で発掘調査を担当された小笠原好彦先生は、最近出版した本の中で、現場は飛鳥中心部からはかなり離れているので、岸俊男説を紹介して、万葉集に詠まれた南淵に宮があった弓削皇子の宮も候補としてあげられるだろうと書いている。

 (小笠原好彦 「検証 奈良の古代遺跡-古墳・王宮の謎をさぐる」 吉川弘文館、2019年8月1日発行)

 
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玉藻橋付近
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勧請橋 男綱
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飛び石

犬養先生揮毫の万葉歌碑が建つ。 
歌碑がないときから先生に連れて頂き、万葉が詠まれたこの場所を訪ねたことが懐かしく思い出される。

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竜福寺と竹野王碑
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南淵先生墓への道標
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南淵請安先生説明
 608年小野妹子が裴世清を送って隋へ派遣されたとき、高向玄理、僧旻らとともに長期留学生(最短でも20年、中国政府国費留学生)の身分で中国に渡った。隋が滅亡し唐が興隆する様を体験して、640年に帰国し、大化の改新に役割を果たしたとされる。
僧旻は孝徳朝で重用されるが、南淵先生はそれまでに亡くなったらしい。しかし、先進国の文化をもたらし、日本の朝廷に大きな影響を与えた。

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南淵先生の墓

 南淵請安の墓は川向の朝風付近にあったが、こちらに移されたそうです。
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神社祠
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犬養孝揮毫万葉歌碑

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元の南淵請安墓(朝風)方面?
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飛鳥川上坐宇須多技比賣命神社

斉明天皇雨乞いの淵?
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飛鳥川上坐宇須多技比賣命神社
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石段
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国栖奏(2019.2.18)

国栖奏(2019.2.18、旧暦正月14日)
浄見原神社  奈良県吉野郡吉野町南国栖1

浄見原神社付近地図
 大和上市から、天武天皇他歴代の天皇の離宮が置かれた宮滝に入り、さらに吉野川沿いの道を上流に向かうと、吉野川が大きく右に蛇行し菜摘、窪垣内、紙漉きで有名な国栖(くず)という地域に入ります。ここから国道169号線で大台ケ原付近を通過して熊野へ抜けて行けますし、国道166号線で高見トンネルを越え、櫛田川沿いに松阪・伊勢へ抜けてゆく交通の要衝です。江戸時代には伊勢の紀伊長島から桜井市へ鯖を運び、桜井の魚屋が東京築地の魚河岸に店を開いたそうです。

新子から南国栖へ隧道を抜けた所に浄見原神社があります。初めて行った人は余りにも辺境の地なので驚くようですが、田舎育ちの私は故郷へ帰ったように思えて、とても親近感を覚えます。

旧国栖村古跡略図(文献1)
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国栖奏
 今年も旧暦の正月14日(2019年2月18日)の日に、奈良県吉野郡吉野町南国栖(みなみくず)の浄見原神社で、国栖の12人の翁達によって、「国栖奏」が奉納されました。 例年なら雪が散らつく時節ですが、今年はとても暖かく晴天に恵まれ、お供えの赤カエルも目を覚ましていました。

浄見原神社は吉野川が蛇行した天皇渕の断崖絶壁の狭い空間の小さい祠にご神体(天武天皇)が祀られていますので、そこまでは、自治会館前の駐車場から歩いて行きます。崖沿いの道を行くと、眼下にエメラルドグリーンのとても綺麗な天皇渕が見えてきます。 

<吉野川に架かる鈴の音橋>
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<吉野川 右堤防を歩いて神社へ>
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<神社方面>
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<鈴の音橋>
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<反対方向>
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<地元の方のおもてなし>
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<国栖奏伝習所>
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<受付>
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受付のテントで手続きを済ますと、「国栖と国栖奏」というパンフレットと特産品の「割りばし」と、お祝いの「神餅」を2個頂き、国栖奏の最後に翁によって、自分の名前を読み上げてくれます。

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<謡曲国栖と国栖奏説明板>
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<参道から見た鈴の音橋と吉野川>
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<美吉野1>
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<美吉野2>
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<美吉野3>
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<天皇渕1>
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<天皇渕2>
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<天皇渕3>
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<天皇渕4>
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<天皇渕5>
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<天皇渕6>
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<神社への石段入口:お祝いの日>
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<浄見原神社舞台・本殿への石段>
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<舞台とお供え>
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ヒカゲノカズラ・シダなどで舞台の廻りを飾る
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奥 <五品の神饌>
五品の神饌をお供えします。右から、
 1. 山菓(栗):昔、当山間地方の貴重な食物
 2. 醴酒(こざけ、一夜酒):応神天皇吉野行幸のとき献上せしもの
 3. 腹赤の魚(うぐい):天武天皇に献上せしもの、占いにも使用
 4. 土毛(くにつもの、根芹(せり)):応神天皇に献上せしもの
 5. 毛瀰(もみ、赤蛙):昔、当山間地方最高の珍味として献上せしもの
手前 <7つの楽器>をお供えします。
  鈴と榊 笛2 鼓1 笛2 鈴と榊
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本殿前
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<翁(12人)>
翁は天武天皇から特別に使用を許された「桐(きり)・竹(たけ)・鳳凰(ほうおう)」を織り込んだ狩衣(かりぎぬ)・烏帽子(えぼし)の装束を身に着けます。翁は全員で12人です。舞翁は2人で、右手に鈴、左手に榊を持ち舞います。笛翁は4人で横笛を奏します。鼓翁は1人で鼓を打ちます。歌翁は5人おり、歌謡を朗々と奏します。

国栖奏は以下の順序で行われます。

1.神官が先導して、参殿の笛を奏しながら12名の翁が崖沿いの参道を進み舞殿に登壇します。
  まず楽器を神前に供え一同が着座すると、神官が祝詞を奏上し神事を行います。

2.神事終了後、一歌、二歌を奏します。

一歌 世にいでば 腹赤の魚の片割れも  国栖の翁が  淵にすむ月
二歌 み吉野に  国栖の翁がなかりせば 腹赤の御贄  誰か捧げむ

3.その後、神饌台から楽器を下げて、笛に合わせて三歌を唱和し、舞に移ります。

三歌 鈴の音に  白木の笛の音するは  国栖の翁の  参るものかは

4.二人の舞翁が鈴を右手に榊を左手に持ち、歌翁の一人が「正月」と声をかけると他の歌翁が「エンエイ(遠栄)」と唱和します。これを、正月から十二月まで繰り返し行います。

5.四歌を奏します。四歌は古事記の応神天皇条記載の歌謡そのものです。

四歌 かしのふに よこすをつくり よこすにかめる おほみきうまらに きこしもちおせ まろかち

四歌終了後翁達全員が口元に手を添え上体を反らす「笑いの古風」と呼ばれる所作を行います。

6.最後に氏子と奉賽者の名前を一人ずつ「エンエイ」と囃しながら読み上げ(御巡楽という)、素朴ながらも典雅な舞楽は終了します。

<浄見原神社 宮司祝詞奏上>
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<二歌奏上>
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<楽器撤下>
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<楽器撤下>
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<舞奏上>
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<舞1>
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<舞2>
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<舞3>
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<舞4>
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<笑いの古風>
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<名前の読み上げ。エンエイ―>
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<宮司お祓い>
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<翁神饌撤下>
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<栗>
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<土毛(くにつもの、根芹(せり))>
IMG_5747s.jpg

<醴酒>
IMG_5725s.jpg

<腹赤の魚(うぐい)>
IMG_5751s_2019022015184985d.jpg

<毛瀰(もみ、赤蛙)>
IMG_5720s.jpg


文献1: 「奈良県指定無形民俗文化財 国栖奏」 国栖奏保存会 平成16年




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