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上御堂御開扉

 11月1日から3日まで法隆寺上御堂(かみのみどう)が御開扉になり、普段は入れないお堂の中に入り、この期間だけの御朱印を頂く人で、行列ができていました。

上御堂は法隆寺西院伽藍の大講堂裏の、丘の上に建っており、かなり石段を上ってお堂に到達します。この時期には、例年なら咲いている10月桜が、咲いていませんでした。 今年の夏は猛烈に暑かったですが、その異常気象の影響だと思います。

お堂は、高台にあるので、奈良盆地東の山々が一望できます。 畝傍山もはっきりと見えました。ブラタモリではありませんが、法隆寺西院伽藍の境内は北側に向かって傾斜しており、境内の地形図から等高線を見ると、大講堂のある場所は、五重塔のある場所と比べて、高台にあり、法隆寺再建当時、かなりな土木工事を行って、西院伽藍が建てられたことが分ります。その大講堂よりさらに高い場所に、上御堂が建っています。

 上御堂は舎人親王により創建されたという伝承がありますが、明らかではありません。 現在の建物は文保2年(1318年)に再建されたものであり、間口7間×奥行4間で、屋根は一重の入母屋造で、本瓦葺きで、重要文化財に指定されています。建物正面の扉は桟唐戸を釣っています。また、堂内の空間は古式で母屋は折上組天井を支輪が支えています。中央三間に木造の仏壇が置かれています。

国宝・釈迦三尊像(平安時代、桜材、漆箔)
 本尊(国宝)は10世紀中頃を降らない平安時代に造られた木造(櫻)、漆箔の釈迦三尊像で、脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩で、宣字座を台座としています。文殊菩薩は巻子と剣を、普賢菩薩は如意を持ちます。中尊と同様に脇侍も宣字座に坐り、二重円光背を背負います。

四天王像(重要文化財)
 堂内の四天王は、鎌倉時代の文和4年(1355)に造られた木造・彩色・切金の像で彩色が色鮮やかに残っています。

源頼朝寄進のだ太鼓
  お堂の正面左横に源頼朝寄進のだ太鼓が置かれています。白い覆いがかけられてますので中は見えません。

救世観音が安置されていた厨子
 お堂右隅にフェノロサと岡倉天心が開扉した夢殿にあった長方形の厨子が置いてあります。現在、夢殿には八角形の厨子に安置された救世観音が安置されており、開扉中です。

五重塔心柱の空洞部(石膏)
五重塔心柱の空洞部(石膏)の形が右端の後部に置かれています。

上御堂 
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上御堂桟戸
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桟戸
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畝傍山が見えました
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大講堂を見おろす
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台風21号による法隆寺風鐸落下

 2018年9月4日正午頃徳島県南部に上陸した台風21号は、1961年の第2室戸台風以来の猛威をふるって、16時頃日本海に抜けました。

奈良市近辺では、台風が神戸市に再上陸してから、風速が強まり、福知山辺りを通過しているときが、一番風が強く,おそらく風速40メートル近くだったと推測します。

 奈良盆地は、紀伊半島に聳える2000メートル級の台高山脈などの峰々に守られ、南東の強風は遮りますが、大阪湾を通過して、神戸、福知山を通過するときの吹き返しの風は、金剛・葛城・生駒の山ではさえぎることができず、強風が吹きます。

法隆寺は9月4日朝には台風21号襲来に備えて、拝観中止の措置をとりました。境内には強風で折れた松の枝が散乱していましたが、金堂の風鐸と五重塔相輪の風鐸の舌(ぜつ)が強風で外れて、地上に落下してTVニュースで報道されていました。

風鐸は金堂や五重塔の軒先にぶら下がる飾りで、強い風が吹くと、カラカラと音がしますが、大きなお寺の行事のときは、ここに幡を垂らして飾りつけをします。

今回、25年ぶりの強風が吹きましたが、1300年前に建立された、金堂と五重塔、その他の建物には大きな被害がなかったようです。

法隆寺松並木の片づけ
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南大門前
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五重塔
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舌が付いた風鐸
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舌が外れた風鐸
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金堂
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舌の外れた風鐸
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東から五重塔と金堂
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「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」 子規の句碑
 松の枝が強風で折れている
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鏡池の泥水
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台風が過ぎ去ったと思ったら、直後に北海道、厚真を震源とした、震度7の大きな直下型地震が発生し、次から次へと大きな災害が発生し、留まることを知りません。古代の大王は天変地異による災害が発生する度に、それは自分の政治が良くないからだと心を痛めて、神仏にお祈りして、救済事業を行い、御恩赦を行いました。 

為政者の政治が悪いから災害が起こると考えた古代の大王が考えた思想は、現在にも生きているような気がしてなりません。


2.5時間でまわる法隆寺(2) 法隆寺の聖地は若草伽藍

 法隆寺金堂薬師如来像の光背銘によって法隆寺創建の由来が分ります。これによれば、聖徳太子と推古天皇は、用明天皇の病気平癒を願って、薬師如来像を造り本尊として、607年に法隆寺を創建したとあります。 法隆寺の南大門前の参道西側に屋根付きの看板があり、法隆寺についての解説があります。その下には、法隆寺境内の地図があります。
 創建法隆寺は670年(天智天皇9年)4月30日の火災によって焼けたことが日本書紀に書かれています。
 『夏四月の癸卯の朔壬申に、夜半之後に、法隆寺に災けり。 一屋も餘ること無し。大雨ふり 雷震る。』
現法隆寺の再建・非再建について長い間論争が続いてきましたが、斑鳩町教育委員会による平成16年、18年の発掘調査によって、大量の彩色壁画片が見つかり、若草伽藍の焼失はほぼ確かであると考えられています。

南大門前(左手に案内板)
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下馬の石碑と案内板
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史跡法隆寺
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書き下し
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史跡 法隆寺境内

 法隆寺は聖徳太子創立、およそ一千四百年の伝統をもつ大伽藍である。金堂、塔を中心とする西院伽藍は、よく上代寺院の相貌を伝え、わが国現存最古の寺院建築として、極めて価値が高い。 その寺地は天平十九年の当寺資材帳に「方一百丈」とあり、また鎌倉時代の古今目録抄などによれば、現地域とほぼ合致している. 夢殿を中心とする東院伽藍は、天平十一年 行信により聖徳太子の斑鳩宮故地に創立されたが、天平宝字五年の東院資材帳に示される寺域は、現東院境内に現中宮寺をあわせた地域とみられる。
すなわち東西両院をふくむ、法隆寺伽藍の全域は、わが国上代寺院史上各種の重要史料を内包し、また斑鳩宮跡、若草伽藍まどの重要遺跡をもあわせて、その歴史的並びに宗教的価値はきわめて高いものである.

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注1) 天平十九年は西暦747年、2月11日に『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』が作成される。
注2) 寺地の大きさについて資材帳に「合院地四方各一百丈」とあり、その現尺への換算尺は980尺である。中門より南大門まで486尺、伽藍中心線から西大門まで490尺で、980尺の約半分である。その東限は食堂の東の土塀の線に、北限は上堂の南側をさえぎる線にあったことも察せられる(石田茂作著『法隆寺雑記帖』、学生社、昭和34年。)とあるがはっきりした範囲は不明。
注3) 天平十一年は西暦739年。
注4) 天平宝字五年は西暦761年、10月1日に『仏教并資材条(法隆寺東院資材帳)』が作成される。

法隆寺境内地図
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 現在の法隆寺の境内図を示しています。法隆寺境内は18万7000㎡(約5.7万坪、甲子園球場の約5倍)の広さがあり、西院伽藍と東院伽藍とに分かれています。 この地図で、注目してほしい場所は、南大門の東側大垣の中に描かれている『若草伽藍塔心礎』 と書いてある場所です。 ここが、聖徳太子が607年に創建した法隆寺の聖地で、若草伽藍とよばれます。昭和14年に石田茂作らによって発掘調査が行われ、五重塔と金堂の基壇跡が検出され、聖徳太子が創建した法隆寺は四天王寺式伽藍配置であったことが分りました。
 
東大垣(若草伽藍方面), 平成16年発掘現場
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若草伽藍跡
 法隆寺夏期大学のときに若草伽藍跡が公開されます。本年(2017年)1月に若草伽藍の中門があったとされる民家の跡を発掘調査するとの新聞記事がありましたが、その後斑鳩町当局からは何の発表もないので調査がどうなったのか分かりません。若草伽藍跡については本ブログ記事を参照ください。

2.5時間でまわる法隆寺(1) 松並木

  数年前にNHKで「2時間でまわる法隆寺」という番組があり大変好評でした。聖徳太子の1400年回忌があと4年後に迫ってきて、最近各方面で聖徳太子や法隆寺のことが取り上げられる機会が増えてきました。 本ブログでは「2.5時間でまわる法隆寺」と題して、あまりガイドブックにのっていない法隆寺の見どころも含めて法隆寺の紹介をしたいと思います。

法隆寺iセンター
 まずはじめて法隆寺を参拝される方には、法隆寺参道入り口にある町営駐車場に併設されている、法隆寺iセンターに立寄られることをおすすめいたします。ここでは無料のパンフレットや観光案内情報が得られます。また、グッズも販売しておりますし、食堂もあります。

法隆寺iセンター(駐車場側)
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法隆寺iセンター(参道側)
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法隆寺参道の松並木(pine avenue)
 約400m続く法隆寺松並木の参道は、鎌倉時代の1261年(弘長元年)に、後嵯峨上皇が法隆寺に行幸されたときに造られました。 このとき、法隆寺の高僧の顕真が上皇の諸堂の案内をされました。 

 法隆寺iセンターを出て、国道25号線沿いから松並木の参道に入ると、参道入口東側に「聖徳宗総本山 法隆寺」(昭和41年4月11日建立 石橋犀水(日本書道教育学会理事長)筆、小谷権六(蒲鉾・大寅社長)寄贈, 西側に 「史跡 法隆寺境内」 (昭和26年6月9日史跡指定、昭和41年3月石碑建立 法隆寺住職 間中定泉(けんちゅうじょういん)筆)の石碑が建っています。

 この参道は昭和7年の国道の工事のとき寸断されましたが、旧参道の松並木が残っており、皇太子という銘の入った天保12年、13年の銘が刻まれた江戸時代の石燈籠一対が残っています。 また、並松(なんまつ)という字名が残っています。

「法隆寺で一番印象深かったのは松並木であった」とおっしゃる外国の観光客がおられました。また、京都御所の松並木に匹敵すると言われる方もいました。 車で来られた場合は通りませんが、是非この素晴らしい松並木の参道を歩いてみることを、おすすめします。

 なお、平安時代に秦致貞によって描かれた国宝の「聖徳太子絵伝」(東京国立博物館蔵)に、聖徳太子が3歳の時、天皇から「松が好きか、桃が好きか」とたずねられたとき、「私は、松は1年中、青々としているので、松が好きです」と太子が答えたというエピソードに基づき、法隆寺境内には松が多く植えられています。

並松旧参道石燈籠一対
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国道25線と参道と南大門
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参道入口石碑
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聖徳宗総本山 法隆寺
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史跡法隆寺旧境内
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松並木の参道
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松並木の参道
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南大門前
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南大門
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南大門から中門(工事中)
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法隆寺金堂釈迦三尊像と光背銘

 東野治之(とうのはるゆき)著 「聖徳太子ーほんとうの姿を求めて」 岩波ジュニア新書、2017.4.20、を読みました。 奈良大学でもときどき講義を拝聴しましたが、この本は聖徳太子について色々な角度から深く検討されている一流の学者ならではの、素晴らしい内容でした。 

 この本の中で、聖徳太子のほんとうの姿を求めるための一つの定点として、法隆寺金堂の釈迦三尊とその光背銘を取り上げておられます。 国宝の釈迦三尊像は聖徳太子のために、623年に司馬鞍首止利によって造られた傑作です。中尊の釈迦如来坐像は高さが87.5cmあり、立ち上がると身長は175cmとなり、聖徳太子等身大の像です。造形は中国の北魏や南北朝時代の仏像とよく似ており、一見厳しそうなお顔ですが、よくよく仰ぎ見ると大変やさしく慈悲深いお顔をされております。私は正月の吉祥悔過のときに夜に拝観する機会がありましたが、とても優しい表情をしておられ、魅せられました。

 東野先生は、釈迦三尊像の光背の銘文(14字×14行=196文字の本格的漢文)を特別に調査された結果、銘文は蝋型鋳造という技法で作られたことを物的に証明されました。その結果、この銘は後から刻印されたものではなく、像が造られたときに刻まれたものであることを示されました。これは実はすごい話で、数ある太子関係の史料の中で最も信頼できる史料となります。

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以下に金堂釈迦三尊像光背の銘文を紹介します。

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**法隆寺釈迦三尊光背銘 (参考文献(2))**
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法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼
前太后崩明年正月廿二日上宮法
皇枕病弗悆干食王后仍以勞疾並  
著於床時王后王子等及與諸臣深
懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋
像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安
住世間若是定業以背世者往登淨
土早昇妙果二月廿一日癸酉王后
即世翌日法皇登遐癸未年三月中
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
具竟乘斯微福信道知識現在安隠
出生入死随奉三主紹隆三寳遂共
彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁
同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造
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読み下し文(参考文献(1))

法興元丗一年(ほうこうげんさんじゅういちねん)、歳(ほし)は辛巳(しんし)に次(やど)る十二月、鬼前太后(太子の母)崩ず。明年正月廿二日、上宮法皇、病に枕して弗悆(ふよ)。干食(かしわで)王后、仍(より)て以(もっ)て労疾(ろうしつ)、並びて床に著(つ)く。時に王后(おうこう)王子等、諸臣及与(と)、深く愁毒を懷(いだ)き、共に相(あい)発願すらく、「仰ぎて三宝に依(よ)り、當(まさ)に釈像(しゃくぞう)の、尺寸王身(しゃくすんおうしん)なるを造るべし。此(こ)の願力(がんりき)を蒙(こうむ)り、病を転じて寿を延(の)べ、世間に安住せむ。若(も)し是れ定業(じょうごう)にして、以て世に背(そむ)かば、往きて浄土に登り、早(すみや)かに妙果(みょうか)に昇らんことを」と。

二月廿一日癸酉(きゆう)、王后即世(そくせい)す。翌日法皇登遐(とうか)す。癸未(きび)年(623年)三月中、願いの如(ごと)く敬(つつし)みて釈迦尊像并(あわ)せて侠侍(きょうじ)、及び荘厳具(しょうごんぐ)を造り竟(おわ)る。斯(こ)の微福(びふく)に乗じ、道を信ずる知識、現在安隠(げんざいあんのん)にして、生(しょう)を出でて死に入り、三主(さんしゅ)に随(したが)い奉(たてまつ)り、三宝を紹隆(しょうりゅう)し、遂(つい)には彼岸(ひがん)を共にし、六道(ろくどう)に普遍(ふへん)せる、法界の含識(がんしき)、苦縁(くえん)を脱するを得て、同じく菩提(ぼだい)に趣(おもむ)かむことを。司馬鞍首止利仏師(しばのくらつくりのおびととりぶっし)をして造ら使(し)む。

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解釈文(筆者)

法興元丗一年、辛巳(かのとみ、推古29年=西暦621年)12月に鬼前太后(聖徳太子の母)が亡くなった。その翌年(622年)の正月22日に上宮法皇(太子)も病に倒れ、また看病の疲れか妃の干食王后(かしわでおうこう)(膳菩岐々美郎女)も並んで床についた。時に、王后と王子等及び諸臣ともに深く愁えを懐いて次のように発願した。「三宝の仰せに従い、釈像の尺寸王身、すなわち太子と等身大の釈迦像を造ることを誓願する。この誓願の力によって転病延寿すなわち、病気を平癒し寿命を延ばし、世間で安住することを願う。もし、前世の報いによってこの世を去るのであれば、死後は浄土に登り、はやく妙果に昇らんことを願う」

しかし、622年2月21日に膳夫人が薨じ、翌日、聖徳太子も薨じた。そして、癸未(みずのとひつじ、推古31年=623年)3月中に、願いのごとく謹んで釈迦尊像と挟侍および荘厳具を造りおえた。この小さな善行により、道を信じる知識(造像の施主たち)は、現世では安穏を得て、死後は、三主(太子の母、聖徳太子、膳妃)に従い、三宝を紹隆して、ついに彼岸を共にし、悟りに至り、六道を輪廻する一切衆生も、苦しみの因縁から脱して、同じように菩提に至ることを祈る。この像は司馬鞍首止利という仏師に造像させた。

参考
(1)東野治之「聖徳太子」岩波ジュニア新書、2017.4.20 
(2)奈良六大寺大観「法隆寺」第一巻、p.23、岩波書店、1972
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