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聖徳太子を学ぶ連続公開講座(2)

2021年の聖徳太子1400年御遠忌にむけた奈良県図書情報館主催の連続公開講座(2)が、10月1日に明日香村中央公民館で開催されました。講座終了後、中央公民館から橘寺までのガイド付きのウオーキングと橘寺での聖徳太子絵伝2幅の特別公開がありました。

講座1: 相原嘉之氏 『聖徳太子にまつわる遺跡群』
・ 聖徳太子誕生地は橘寺周辺か?
   日本書紀の推古条に、「聖徳太子の母が出産予定日に宮中を巡察していたおりに、馬の司の厩の戸にぶつかったとき、難なく出産された。」という記事があるので、用明天皇(橘豊日皇子)の別宮が橘にあり、橘寺周辺が誕生地であるという伝承が生まれた。橘寺は四天王寺式伽藍配置(山田寺式)であり、金堂?は7世紀初頭、塔は7世紀後半、講堂は8世紀の建物であることが発掘調査で分かっている。 なお、橘寺下層遺跡からは7世紀前半の石組水路や掘立柱建物(6世紀後半~7世紀初頭)の跡が検出されている。

・用明天皇の磐余池辺雙槻宮の南に聖徳太子の上之宮遺跡(桜井市上宮)
  桜井市の上之宮遺跡は6世紀後半から7世紀初頭にかけて、四面廂の正殿とこれを囲む塀、そして石敷き遺構や園池遺構が検出され、聖徳太子が斑鳩に移る前に住んでいた「上宮」の可能性がある。なお、古地図に桜井市谷に西池田、東池田、南池田、君殿の地名があり、ここが磐余池の候補地であり、このそばに用明天皇の宮があったと推定する。日本書紀に以下の記事があるので、聖徳太子が斑鳩に移る前の宮は桜井市上宮であったと考えられる。
〇日本書紀用明元年(586)正月条、 「是の皇子、初め上宮に居しき。後に斑鳩に移りたまふ。」
〇日本書紀推古元年(593)4月、「父の天皇、愛みたまひて、宮の南の上殿に居らしめたまふ。故、其の名を称えて、上宮厩戸豊聰耳太子と謂す」 

・豊浦宮(592~603)
 豊浦寺下層から周囲に石敷きを施す掘立柱建物(北で西に19度偏位)を確認しているので、豊浦宮の有力な候補地である。推古天皇が即位した最初の宮址。王宮設置可能範囲は最大でも南北150m×東西80mで狭い。

・最初の遣隋使(推古8年、600)
  日本書紀には書かれていないが中国の歴史書『随書』倭国伝に、日本の遣隋使が隋の文帝と面会した記事が掲載されている。聖徳太子27歳のときである。この西暦600年は日本の飛鳥時代の歴史の大きなエポックであり、600年を境に色々な出来事が起こってくる。

・小墾田宮
  飛鳥寺の北側に古山田道があり、その北側に推古天皇の小墾田宮(603年に遷る)があり、裴世清を迎えた場所であったと推定する。雷の丘東方遺跡からは8世紀後半の「小治田宮」墨書土器が出土しているが、推古朝の「小墾田宮」は別の場所だったと考える。

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★ 聖徳太子関係の年表
-- 磐余の時代 --
574年 聖徳太子生まれる(「上宮聖徳法王帝説」)(1歳)
587年 物部守屋倒す。 太子四天王像を作り戦勝祈願(14歳)
593年 聖徳太子摂政・皇太子になる(20歳)
594年 天皇、三宝興隆の詔(21歳)
595年 高麗僧慧慈、皇太子の師となる(22歳)
600年 遣隋使が隋の文帝と面会(『隋書』倭国伝)(27歳)
601年 聖徳太子、斑鳩宮・寺を造営(28歳)
603年 推古天皇、小墾田宮へ遷る(30歳)
     冠位十二階制定
604年 十七条憲法公布(31歳)
--斑鳩の時代--
605年 聖徳太子斑鳩宮へ遷る(32歳)
606年 勝鬘経を講ずる(33歳)
  岡本宮で『法華経』を講ずる
607年 法隆寺、建立される(34歳)
     遣隋使の派遣(34歳)
     「日出づる所の天子、書を日没する処の天子に致す」
620年 『天皇記』、『国記』などの史書編纂開始(47歳)
622年 聖徳太子、斑鳩の宮(飽波宮説もあり)で没する(日本書紀は621年)(49歳)。
     磯長陵(叡福寺北古墳)に葬る。
623年 法隆寺釈迦三尊像が完成する
643年 蘇我入鹿、斑鳩宮襲撃、山背大兄王ら、法隆寺で自害。
648年 食封300戸が法隆寺に施入される。
670年 法隆寺落雷により炎上
693年 持統天皇、仁王会に際し、法隆寺に天蓋などを納める
694年 持統天皇、法隆寺に『金光明経』を納める。
711年 法隆寺中門の金剛力士像、五重塔の塑像が造られる。
733年 この年から光明皇后、数度にわたり法隆寺へ宝物など寄進
739年 行信、上宮王院(東院伽藍)を建立する。
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明日香村中央公民館

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橘寺方面
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橘寺方面
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岡寺の塔
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橘寺山門
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馬銅像
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二面石
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聖徳太子信仰の展開

 8月20日(日)に開催された奈良県王寺町観光協会主催の歴史リレー講座、西大寺清浄院住職佐伯俊源氏による「聖徳太子信仰の展開」に参加しました。佐伯氏は講演のはじめにアベノハルカスで開催されている「西大寺展」の紹介をされました。西大寺は765年に称徳天皇によって創建された東大寺にも匹敵する巨大な官寺でしたが、平安遷都後荒廃しました。

 鎌倉時代に叡尊が西大寺を拠点として、真言律宗を起こし、最盛期には全国で1500ケ寺の末寺を有する総本山として栄えました。現在は約100ケ寺の末寺を有し、西大寺一門が所有する仏像や宝物が、あべのハルカス美術館で展示されています。先日、本ブログで京都浄瑠璃寺の吉祥天像の拝観を報告しましたが展示期間が終り現在は展示されていません。

叡尊は民衆に信仰を広げるため信仰の入口を多様にし、聖徳太子信仰も広めました。このとき、法隆寺の末寺も復興しました。元興寺の聖徳太子16歳像、2歳像も展示されていますが、叡尊の下で造られたものです。

佐伯氏は最近の聖徳太子が教科書から消えるような状況に大変批判的で、佐伯氏が執筆した岩波仏教辞典の「聖徳太子」の項目の紹介を行い、聖徳太子の経歴と、事績について詳しく述べられ、火のない所に煙は立たない、つまり聖徳太子の実在について述べられました。最後に聖徳太子に関する次の2つの書物を紹介されました。

・ 石井公成 「聖徳太子 実像と伝説の間」 春秋社 2016
・ 東野治之 「聖徳太子 -ほんとうの姿を求めて」 岩波ジュニア新書、2017

なお、講演会の後、王寺町の学芸員の案内で達磨寺所蔵の涅槃図(重要文化財)の説明がありました。
最近、王寺町では町長が変わってから大変精力的に歴史講座を開いたり、達磨寺やマスコットキャラクタ雪丸の押出しをやっています。頼もしい限りです。

講座看板
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王寺町達磨寺涅槃図(重要文化財)
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絵の中の菩薩の説明
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涅槃図(複写)
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赤外線写真(複写)
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奈良文化論 聖徳太子と法華経

 奈良大で「奈良文化論」と題する講座があり、東野治之教授の「聖徳太子と法華経」と題する講義を学生と一緒に聴講しました。
 最初に本日新聞発表された、東京博物館所蔵の法隆寺献納宝物の中の『木簡』について触れられました。東京博物館には法隆寺献納宝物のうち、美術品でないもの、いわばガラクタは箱に入れて保管されていたが、それを最近入った若い人が見つけ、その中にあった幡の軸として使われていた木が、木簡であったとのことです。東京博物館にまだそのようなものがあったということは驚きです。
 本日の奈良新聞によれば法隆寺では7世紀に木簡が用いられており、米俵や塩の売買の記録、漢詩の習書、「善満尼」、「上法尼」という尼僧の名前が記された木簡が発見されました。『7世紀には役所だけでなく、寺の中でも木簡が日常的に使われたことが分かる』(奈文研、渡辺晃宏氏談)。 

さて、本日の講義では聖徳太子が法華経の最初の請来者とする伝承のお話で、私にとっては大変興味深い講義でした。
特に、鑑真和上が日本に来られた理由の一つとして、聖徳太子の「慧思転生説」があり、その導入者は遣唐留学僧、道慈(718年、養老2年帰国)であるとのことです。

本日の講義の項目を記しておきます。
 1.聖徳太子研究の動向 (『聖徳太子伝暦』)
 2.太子の転生伝説 (『七代記』)
 3.太子の取経伝説 (『上宮聖徳太子伝補闕記』)
 4.細字法華経の伝来
 5.伝承の変容
 6.法華経はいつ日本に伝わったのか

 5年後の2021年は聖徳太子没(622年)後1400年の年で、全国の関係寺院などでイベントが予定されています。
本日の奈良新聞によれば県内20市町で「聖徳太子プロジェクト推進協議会」が開かれ12月からイベントが開始されるそうです。






 

仏教の伝来と聖徳太子

 奈良県王寺町主催の歴史リレー講座が開催されました。本日は帝塚山大学教授(前奈良国立博物館学芸部長)の西山厚先生の講演「仏教の伝来と聖徳太子」がありました。西山先生は仏教史を専門としておられますが、奈良博物館では学芸部長として、独創的な展示で活躍されました。

 本ブログでもこれまで、先生と一緒に鑑真の足跡を訪ねて中国揚州へ旅行した記事や、鑑真が日本へ上陸した地の鹿児島県坊津へ旅行した記事を掲載してきました。 今回の講座は、大変魅力的なテーマだったので、西山先生の切り口でどのような話になるか楽しみにしていましたが、期待通り素晴らしいお話でした。

最初に西山先生はなぜ日本に仏教が伝わったのかについて、次の問を発っせられました。 配布されたレジメから問を引用します。

日本には百済から仏教が伝えられた。

それはいつなのか。
そのころ日本はどのような状況だったのか。
そのころ百済はどのような状況だったのか。
なぜ百済は日本に仏教を伝えたのか。
仏教を伝えるとは具体的には何を伝えるのか。
仏教が伝えられて日本はどうなったのか。

朝鮮半島の高句麗には372年に中国の前秦王から使者と僧を遣わし、仏像と経典を伝えました。 また百済には384年に東晋から西域僧が来て寺を建立しました。新羅には5世紀前半と後半に高句麗から僧が来て伝えました。日本には百済からの救援要請に伴い欽明天皇のときに仏教が伝えられました。

講演では「日本書紀」に記載された仏教伝来に関する記事を、西山先生が丁寧に解説され、それに基づいて仏教伝来の経過を解説されました。日本書紀に基づき、真正面から本質を付いた素晴らしい解説でした。

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次に、法隆寺と聖徳太子に関する以下の問を発せられました。

① 法隆寺は、いつ誰がなんのために建てたのか?
② なぜ、法隆寺は焼けたのに、釈迦三尊像などの古い仏像が残っているのか?
③ なぜ、法隆寺は場所を変えて再建されたのか? 誰が再建したのか?
④ なぜ、金堂と五重塔の建築様式がまるで違うのか?
⑤ なぜ、五重塔の心柱に、594年頃に伐採された古い木が使われているのか?
⑥ なぜ、奈良時代にできた夢殿に、飛鳥時代の救世観音像が安置されているのか?
⑦ 「法華義疏」は、本当に聖徳太子が書いたものなのか?
⑧ 聖徳太子は本当にいたのか?

上記⑦の問について、西山先生は法華義疏を調査された結果、これは99.9%聖徳太子の真筆であろうと断言されました。しかも、本文の前半は詳しい記述となっているが、後半は簡単になっているので、606年岡本の宮で聖徳太子が推古天皇に対して講説したときの、講義ノートではないかと推測されていました。 本文は何回も字を小刀で削り、紙を貼り付けて推敲・訂正を繰り返した跡があり、また返り点を付けて、書き順を訂正しているのは、日本人が書いた証拠である。 また、筆跡を見ると聖徳太子の字は丸みのある筆跡をしていると述べられました。 書道や筆跡鑑定について非常に詳しい西山先生ならではのお話しでした。

また、法華義疏が真筆であるならば、聖徳太子はもちろん存在した。 また、憲法17条の第10条は聖徳太子以外の誰も作れない思想であり、文章である。17条憲法は聖徳太子が書いたのではないという人がいるが、それならば誰が作ったのか教えて頂きたいとおっしゃっておられました。

以上

追伸: 明日2月22日は時あたかも聖徳太子の命日であり、法隆寺から大阪磯長の叡福寺まで聖徳太子葬送の道を歩く集いがあります。




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