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布留の史跡 その4

布留の史跡 その4/4です。

厳島神社
 布留の高橋を渡って西へ歩き県道51号(天理環状線)の交差点に出たところに厳島神社が鎮座する。拝殿の奥に一間社、春日造り,檜皮葺の小さな神殿がある。祭神は市杵島姫命である。旧無指定村社で元禄12年(1699)「布留社縁起」に「本社を去ること四、五町、乾方に寺あり、良因寺という。鎮守神其寺内に座す。これ弁財天という。按ずるに良因寺の鎮守なるべし」とあり、良因寺の鎮守として勧請された神社であると考えられる。

<厳島神社>
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<額>
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<本殿>
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良因寺
 良因寺は石上寺とも呼ばれ厳島神社近傍にあったことが発掘調査で明らかになっている。現在、西塔、堂ノ前、堂ノ垣内、堂ノ後などの小字名も残っている。この寺には遍昭が十数年住んでいたという。厳島神社境内の本殿の脇に良因寺の薬師堂が建っている。本尊は明治初年の火災で真っ黒にやけただれている。この本尊は古くから薬師如来とされてきたが観音立像らしく像高2.29mあり、弘仁期様式の作とみる。他に四体の四天王像も置かれていたというが現在はない。

<薬師堂>
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遍昭
 遍昭(816~890)は良岑(峯)宗貞、良僧正、花山僧正とも号した。桓武天皇の皇子、大納言安世の子である。仁明天皇の寵愛を受け蔵人頭になったが、天皇の死去に伴って比叡山横川の円仁(慈覚大師)について出家し、天台を学んだ。その後京都山科の花山に元慶寺を創設し座主となり、光孝天皇の帰依を受け仁和元年(889)僧正に任ぜられた。
遍昭はまた歌人であり、六歌仙の一人として知られる。小倉百人一首の作者として、
     「天つ風 雲の通ひ路吹きとじよ をとめの姿しばしとどめむ」
の歌で親しまれている。

遍昭と小野小町の歌のやりとり
 遍昭が一時良因寺に住んでいた時、小野小町がある夕暮に訪ねてきて粋な歌のやりとりが「後撰和歌集」にある。
石上という寺に詣でて日の暮れにければ、夜あけて、罷り帰らむとて、とどまりて、この寺に遍昭侍りと人の告げ侍りければ、物いひ心みむとて いひ侍りける

石の上に旅寝をすればいと寒し苔の衣を我に借さなむ
                        小町
 世をそむく苔の衣はただ一重かさねばうとしいざふたり寝む    
                        遍昭
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「花の色はうつりにけりないたずらにわが身世にふるながめせしまに」
                   小町(百人一首)

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布留遺跡
 厳島神社前の県道51号線を越えて広い駐車場に入るとその北縁に「布留遺跡」という石碑がある。床のタイルには〇や□の赤い印があり、布留遺跡の遺構があることを示している。
布留遺跡はここだけでなく天理教本部のある一帯が中心地であり、1.5キロメートル四方に及んでいる。昭和13年(1938)以来の発掘で、縄文時代から古墳時代中期に亘る複合遺跡が検出されている。昭和13年の末永雅雄氏らによる発掘調査で出土した古墳時代前期を代表する土器は「布留式土器」と名付けられた。

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<布留遺跡地図>
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<天理教本部附近:布留遺跡>
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布留の史跡 その3

布留遺跡の続きです。

石上神宮

 石上神宮へ行く参道の入口に建つ「官幣大社 石上神宮」の石標は明治初期に石上神宮の宮司を務めた富岡鉄斎の筆によるものです。神宮の境内の池のそばの山中にも、鉄斎の筆になる「諸霊招魂碑」があります。

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柿本人麻呂の歌碑

 参道を進み朱の鳥居近くに来ると、参道の左手側に柿本人麻呂の歌碑があります。

 「未通女等之袖振山乃 水垣之 久時従億寸吾者」
おとめらが 袖布留山(そでふるやま)の瑞垣(みずがき)の 久しき時ゆ 思ひき吾は
  〔万葉集 巻4-501〕 作者 柿本人麻呂

 意味
  乙女たちが袖布留山の瑞垣が久しく年を経ているように、私はあなたを長い間恋い慕ってきましたよ、という相聞歌です。

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 楼門(国重要文化財)
 
 鎌倉時代末、後醍醐天皇の文保2年(1318)に建立。古くは上層に鐘を吊るしていたが、明治初年の神仏令により取り外された。2重の正面の木額「萬古猶新」(まんこゆうしん)は御神徳の永遠の働きを意味し、明治・大正の元老として有名な、山縣有朋の筆による。

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 拝殿(国宝)

  朱の拝殿は平安時代後期の永保元年(1081)白河天皇が鎮魂祭のために、宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝わっている。建築様式は鎌倉初期建立と考えられているが、拝殿としては現存最古のものである。

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摂社出雲建雄神社拝殿(国宝)

 内山永久寺にあった鎮守、住吉社の拝殿を大正3年に、移築し摂社出雲建雄神社拝殿として移築された。中央に馬道(めどう)と呼ぶ通路を開く割拝殿の典型的なものであり、国宝に指定されている。
 現在、屋根修理中のため覆いがかかっており、作業中でした。

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布留の高橋

 石上神宮の楼門前の道を東へ進むと山の辺の道(奈良方面)へ出る。途中左に折れて斜面に貼りついた細道を下っていくと布留川の渓流に架かる橋に至る。そこに「布留の高橋」のプレートが付けられていた。万葉集に出てくる「布留の高橋」と同じ場所であるか、どうかは分からないが布留川に架かる高い橋ではある。

 「石上(いそのかみ) 振之高橋(ふるのたかはし) 高々尓(たかだかに) 
妹之将待(いもがまつらむ) 夜曽深去家留(よそふけにける)」
  石上 布留の高橋 高々に妹が待つらむ 夜そ更けにける
  〔万葉集 巻12-2997〕

意味
 石上の 布留川にかかる 布留の高橋
 その高い 橋のように高々と 爪先立つ思いで
 あの 女が待っているだろうに
 夜はもうすっかり更けてしまった


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天理駅前広場の歌碑
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布留の史跡 その2

布留史跡の続きです。

天理市役所のモアイ像
 天理市役所敷地の脇に巨大なモアイ像(複製)があります。これは大阪万国博覧会のときにチリのパビリオンの玄関前にあったものですが、1985年にチリ政府から天理市に寄贈されたものです。このモアイ像は道路から離れた所にあり灰色をしているため、人々はなかなか気が付きません。天理市役所に行かれたときご確認ください。

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市役所近くの歌碑
 天理市庁舎前バス停近くの銀杏並木の大通り沿いに万葉歌碑が建っています。

「吾妹児哉 安乎忘為莫 石上袖振川之 将絶跡念倍也」
我妹子や 我を忘らすな 石上袖布留川の 絶えむと思へや

〔万葉集 巻12-3013〕
 意味(看板より)
  いとしいひとよ、わたしをお忘れにならないで、
 石上の、袖を振るという布留、その布留の川が絶えないように 
 あなたへの気持ちは絶えません


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<布留川>
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塚穴山古墳
 西山古墳の北側外堤の上に塚穴山古墳の堤が重なって構築されています。直径約63mの大型円墳で幅約10mの濠と幅約15mの堤を合わせると古墳全体では直径約112mの規模となります。
 封土や天井石は失っていますが石室は南に開口する横穴式石室で、全長17.1m、玄室長7.0m、幅3.1m、高さ3m以上あります。玄室と羨道の側壁は共に2~3段積みです。東壁の大型石材は長さ5.8mもあり、石舞台古墳の石材を上回ります。
 玄室の床面には板石が敷かれ、側壁に沿って排水溝が設けられています。1964年の発掘調査で朱塗りの凝灰岩の破片が検出され組み合わせ式石棺が安置されていたことが分かりました。

巨大な石室(封土と天井石は消失)
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塚穴山古墳遠景
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左堤は西山古墳の外堤と共用 右手は塚穴山古墳(円墳)
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峯塚古墳
 天理市杣之内町の小丘陵の竹林の茂みの中にある古墳で、「墓山」とも呼ばれています。
墳丘は三段築成の径35.5mの円墳で、凝灰岩の切石を用いた葺石が敷かれています。7世紀中頃の終末期古墳であり、明日香村越にある岩屋山古墳と同形式の整美な石室をもつ古墳として知られています。
 埋葬施設は墳丘の二段目の南斜面に開口する両袖式の横穴式石室で、花崗岩の切石が使われています。玄室は長さ4.6m、幅2.6m、高さ2.5m、奥壁は上下二枚の巨石を積み、左右両壁も上下二段で、それぞれ二枚の巨石を用いています。羨道は長さ6.5m、幅1.9m、壁面は一段積ですが、前半部の天井がやや高くなる部分は二段となっています。

古墳入口
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緑色した葺石が露出
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石上神宮外苑公園の歌碑
 石上神宮入口のすぐそばに神宮外苑公園があり、その一角に万葉歌碑が建っている。

 「石上 振乃神杦 神備西 吾八更々 戀尓相尓家留」
  石上 布留の神杉 神びにし 我やさらさら 恋にあひにける
  〔万葉集 巻10-1927〕
意味(看板より)
 石上の布留の社の年ふりて 神々しい神杉のように 
 年老いた私が いまさら思いもかけず 恋にとりつかれてしまったよ


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布留の里の史跡 その1

 2014年5月16日に天理市布留の里の史跡を訪ねました。何回かに分けて報告します。 今回歩いたコースは次の通りです。

天理駅→市役所西の歌碑→石上宅嗣顕彰碑→西山古墳→塚穴山古墳→峰塚古墳→石上神宮外苑の歌碑→柿本人麻呂の歌碑→布留の高橋→厳島神社→布留遺跡

天理駅
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天理駅前広場の歌碑
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石上宅嗣顕彰碑
  天理大学図書館の前に、日本初の公開図書館「芸亭(うんてい)」を私財を投じて建てた石上宅嗣(いそのかみやかつぐ)の功績を讃える顕彰碑が建っています。これは昭和5年(1930)天理図書館(現、天理大学附属)の落成に当たって日本図書館協会などの発起により、建てられたものです。

石上宅嗣(729~781)は左大臣麻呂の孫で中納言乙麻呂の子である。神護景雲2年(768)参議従三位に進みその後中納言、大納言正三位に進んだ。宅嗣は政治家であったが、文人としても、淡海三船と並び「文人の首(ふびとのおびと)」と称され、万葉集にも歌がある。また、その詩が「経国集」に収められている。

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西山古墳
 前方部を西に向けた全長183m、後方部幅90m、前方部幅72m、後方部の高さ15mの前方後方墳で、昭和2年(1927)4月、史跡に指定された。
三段築成の墳丘でほぼ長方形の周濠をもつ。前方後方墳としては全国最大である。
後方部の下段は方形であるが中段は円形で前方後円形になっている。古墳の築造時期は、4世紀終末から5世紀初頭とみられる

史蹟 西山古墳

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左が後方部
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後方部へ登る
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後方部へ登る
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前方部
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記紀万葉リレートークー布留遺跡

『なら記紀・万葉リレートーク:天理市編』

奈良県では2012年から、なら記紀・万葉プロジェクト[1]、をスタートさせ2020年までの9年間、様々な催しが行われます。「なら記紀・万葉リレートーク」は県下15ヶ所の会場で講演を行うイベントです。
2013年3月9日、天理市文化センターで天理大学付属天理参考館の日野 宏学芸員による講演がありました。午後は、天理市観光協会主催の布留遺跡をめぐるウオーキングの催しがありました。布留遺跡を歩いてみたかった筆者にとっては絶好の催しでした。

日野氏による講演内容は以下の項目に沿って行われました。
1. 物部氏と石上神宮
2. はじめての布留遺跡の発掘調査
3. 布留のまつり
4. 物部氏の武装
5. 物部氏の台頭と居館の出現
6. 布留の生産体制
7. 布留の渡来工人と工人集団
8. 工人の築いた群集墳―赤坂古墳群―
9. その後の物部氏

[1]なら記紀万葉プロジェクトHP
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