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法隆寺金堂壁画焼損自粛法要

 2020年1月26日は第66回全国「文化財防火デー」の日で、法隆寺においても午前10時から「金堂壁画焼損自粛法要」が金堂と収蔵庫で行われ、法要終了後に、域内消防による消防訓練が行われました。昨年は屋根の修理を終えた中門前で実施されましたが、今年は聖霊院前の鏡池にて放水訓練が行われました。

 昨年、世界遺産のフランスのノートルダム大聖堂の火災、日本の沖縄の首里城の火災などがあり、文化財の防火への意識が高まっています。

 今から71年前の昭和24年(1949)1月26日未明に金堂から出火して世界的至宝といわれる壁画が焼損しました。外陣の大壁4面、小壁8面が焼損し、現在、法隆寺の収蔵庫に保管されています。 外陣頭貫上の小壁(栱間壁)18面の「山中(さんちゅう)羅漢図」は火災の損傷が激しく焼失しました。 内陣長押上の小壁20面の「飛天図」は幸いにも火災の前に取り外されていて難を免れ、現在は収蔵庫に保管されています。 現在の金堂の再現壁画は1968年(昭和43)に、著名な画家たちによって再現されたものです。平山郁夫画伯は3号壁画の観音菩薩像を描かれました。

金堂の上層部は戦時中の昭和20年に疎開のために解体され、焼失を免れています。また、堂内の釈迦三尊、薬師如来、阿弥陀如来、四天王、吉祥天、毘沙門天などの諸像も他の堂に移され難をのがれています。

法隆寺の金堂焼損をきっかけとして、1950年(昭和25年)に議員立法によって文化財保護法が制定されました。また、昭和29年11月に法隆寺金堂の修理事業が竣工し、これを契機として、文化財防火の意識を高めるため、1955年(昭和30)に当時の文化財保護委員会(現文化庁)と国家消防本部庁が毎年1月26日を「文化財防火デー」と定め、第1回「文化財防火デー」の諸行事を実施しました。今年は第66回「文化財防火デー」の諸行事が全国各地で施行されました。

 法隆寺西門付近から寺内に入った消防自動車はサイレンを鳴らして聖霊院まえに集合し、鏡池に一斉放水し訓練を行いました。本年は例年にも増して多くの報道陣が来て取材を行っていました。昼のNHK TVのニュースでは放水訓練の様子が映し出されていました。また、古谷執事長が鏡池付近でTVのインタビューを受けておられました。

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文化庁ポスター
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鏡池放水開始
Before
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全面放水
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同上
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聖霊院前消防車整列

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収蔵庫にて法要
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中門金剛力士像(阿形)
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中門金剛力士像(吽形)
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参考文献
1)高田良信 ”「法隆寺日記」を開く”、 NHKブックス、昭和61年.
2)法隆寺 ”法隆寺”、株式会社小学館、2006年.
 






法隆寺 金堂修正会

 法隆寺金堂では今年も1月8日から14日まで、吉祥天と毘沙門天をご本尊とする修正会、「吉祥悔過」の法要が厳修されました。今年もあらかじめ申し込みをして1月14日夜の法会に参列しました。法要終了後には「牛玉札」を頂きます。一年間の無病息災の守り札とします。
 
例年であれば、金堂内はとても寒く、こごえますが、今年は暖かく、また雨のため金堂の外に出て、総社にお参りする神供の法要は金堂内で行われました。

 参列者は午後4時半までに、寺務所に集合し、僧侶から吉祥悔過の法要の意義などの説明を受けます。説明が終了すると、お寺から、「うどん」が出され、夜の法会に備えます。また、カイロまで配布されるので、心まで温かくなります。 法隆寺は創建以来1400年間もの間、信者や地域の人々によって守り、支えられてきたので、お寺と参拝者はとても親しい関係にあります。

 午後5:40になると、寺務所から金堂へ移動します。参道の灯篭には明かりが灯され、法会を支える多くの地域の方々、警備の方々は明かりを照らして誘導してくれるので、それに従って金堂に入ります。 廊下に置かれた椅子に座って、約2時間にわたって厳修される行を拝観します。

金堂内の燭台の灯明皿に火が灯され、釈迦三尊像の前にはピラミッド状に積み上げられたお餅が供えられています。吉祥天立像と毘沙門天立像、釈迦三尊像には、牛玉の印をを押した牛玉札をはさんだ漆の枝、旗を持たせかけてありました。釈迦如来の後ろには牛玉像が置かれます。咒師(しゅし)作法で使う太刀二振り、加持杖、柄に鈴状のものをつけて鳴らす鐃(にょう)などの法具が使われ行が行われました。

金堂の金網がすべて外され、堂内はとても綺麗です。1月2日のNHK TVでは、法隆寺金堂の釈迦三尊像や天蓋の垂飾がアップで映っていましたが、実際はもっと綺麗で、堂内の仏像や天蓋は1300年前の輝きを失っていません。壁画もとても綺麗でした。

修正会は「続日本紀」の称徳天皇紀、神護景雲元年(767)条の勅に従って、768年から平城京大極殿や諸国の寺々で行われるようになった法要で、法隆寺では中断することなく、千二百年以上に及ぶ伝統を今日に伝える古儀です。

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修正会14日の南大門
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行事告知板
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参道両側に灯篭が設置されている
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寺務所への上土門
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大講堂での日中の行に参集
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寺務所から金堂へ移動
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牛玉札
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法隆寺若草伽藍跡

 法隆寺夏期大学参加者に対して若草伽藍特別拝観が行われました。若草伽藍について少し書いておきます。

若草伽藍(本ブログ若草伽藍参照)について

(1) 若草伽藍の礎石
 ・ 江戸時代後期の「古今一陽集」(1746年、良訓編集)に、塔心礎が観音院(現普門院)の敷地の藪林にあることが、 図入りで紹介されています(文献(1))。
 ・ 明治中頃に、塔心礎は北畠治房邸に搬出され、十三重石塔を置く台石とするため、4尺余の方形の彫込みがなされる。その後、大正4年に北畠邸から兵庫県住吉の久原房之助邸へ移されたが、昭和13年に久原邸は野村徳七氏の所有となった。
その頃、法隆寺再建非再建論争が白熱化し、石田茂作氏の朝日新聞掲載の記事によって、塔心礎の重要性に注目が集まり、野村徳七氏は、法隆寺の申し出に、塔心礎の旧地への返還を快諾した。
 ・ JR法隆寺駅まで貨車で運び、そこから木製のコロを敷いた台車の上に礎石を載せ、一週間かけて駅から法隆寺まで曳いて運んだ。 昭和14年10月22日、大垣2間を破って、遂に若草の旧所在地へ据えました。
 ・ 塔心礎は2.7m四方、高さ1.2m、重さ12tもある巨石です。現在の五重塔の心礎の柱座と同様に、若草伽藍塔心礎には八角形の柱座(幅71.205cm)と四隅に添柱用の彫りこみがあります。

(2) 若草伽藍の発掘調査 (1939(昭和14)年12月7日~22日)
    若草伽藍塔心礎の返還に伴い、石田茂作、末永雅夫氏らが、周辺の発掘調査を行った。
 ・ 塔心礎付近の発掘で一辺15.5mの方形の堀込地業(地面を掘って土を入れ突き固める作業)の塔基壇跡を見つけた。また、
  その北側で、東西21.8m×南北19.4mからなる金堂基壇跡を見つけた。 
 ・ 若草伽藍は塔と金堂基壇が南北に並んだ四天王寺式伽藍配置であった。塔と金堂の中心軸は、磁北に対して西に約20度振っていた。石田氏は若草伽藍の全体規模の推定図を示した(文献10, p.293)。
 ・ 金堂の造営工事中に掘られた溝から、創建法隆寺の単弁九弁と八弁の蓮華文の軒丸瓦と手彫忍冬唐草文の軒平瓦が出土した。軒平瓦に文様が付くのは、若草伽藍がわが国で初めてである。八弁蓮華文軒丸瓦は四天王寺と同范で若草伽藍の范が移動した。

(3) 若草伽藍の再調査(1968~1969年(昭43~44年))
    文化庁と奈文研は国営で若草伽藍の再調査を行った。
 ・ 金堂基壇が先に、その後で塔基壇が造営されたことを確認した。
 ・ 塔基壇に塔心礎を据える堀込みがなく、地上式塔心礎であると考えざるを得ない。
 ・ 東回廊、西廻廊、講堂の遺構は削平のため検出できず、若草伽藍の全容はいまだ不明。

(4)防災施設工事に伴う発掘調査(1978~1985年(昭和53~60年))
   奈良国立文化財研究所と奈良県立橿原考古学研究所は全長3.2kmにおよぶ法隆寺境内の防災施設工事に伴う発掘調査を7年かけて行った。
  ・夢殿の北側で斑鳩宮南限の大溝SD1300と、これに直交する西側の溝SD6191を崇源寺の北で見つけた(図1(1)参照)。
  ・若草伽藍の北側と西側で掘立柱塀(北側:大宝蔵殿前掘立柱掘形4個SA4850、西側花園院前参道で柱掘形3個SA3555)を見つけた。また、自然流路SD2140を埋め立ててから若草伽藍西側を限る塀(SA355)を造営し、新しく人工流路SD3560を作ったが、西院伽藍造営のときに埋められたことが分った。

(5) 若草伽藍跡西方の調査(2004(平成16年)) 
    斑鳩町は平成16年に南大門東側広場の整備に伴う発掘調査を行った。その場所は、推定案によれば、若草伽藍の寺域外と考えられていた地域であったが、調査の結果、
 ・ 焼けた軒丸瓦, 焼けた壁土、焼けた壁画片200点以上が出土した。同時に出土した瓦が7世紀前半のものであることから、
   若草伽藍の遺物であると考えられる。
 ・ 金堂などにも仏教的図柄の壁画が描かれいたようであり、日本最古の壁画と言える。
 ・ 若草伽藍の塔・金堂の中軸線から西へ300尺(高麗尺)の場所で斜行溝を検出し、そこが谷となっており、焼けた物がその溝に廃棄されたようである。従来考えられていた若草伽藍の範囲が拡大する可能性がある。
   (この発掘調査に関する正式な報告書は未だ出版されていない。)

(6) 法隆寺旧境内のマンホール設置に伴う調査(2006(平成18年))
  法隆寺境内のマンホール設置工事に伴い、南大門大垣を挟んだ境内のわずか一坪程の調査区を発掘した所、上記と同様の  焼けた瓦や壁画片、壁土が大量に出土した。創建法隆寺を考える上で重要な資料と考えられる。

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若草伽藍全体(聖徳太子建立の聖地。非公開である。夏期大学の参加者のみ拝観できる)
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同上(礎石と大垣)
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礎石の背後に五重塔
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塔心礎 大垣の壁を2間壊して、背後の蔦の絡まる旧北畠邸へ運んだらしい。
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礎石の柱座。八角形の心柱を据え四隅の添え柱で支える。大きな正方形はこの上に石塔を置き風流を楽しんだようだ。
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参考文献
(1) 高田良信 「若草の礎石について」 伊珂留我11, pp.10-21, 1989.
(2) 石田茂作 「法隆寺若草伽藍址の発掘に就て」 伊珂留我11,pp.22-33,1989.
(3) 橿原考古学研究所附属博物館特別展図録 「聖徳太子の遺跡―斑鳩宮造営千四百年―」
   橿原考古学研究所附属博物館, 2001年.
(4) 酒井龍一、荒木浩司、相原嘉之、東野治之「飛鳥と斑鳩―道で結ばれた宮と寺」、 ナカニシヤ出版, 2013.
(5) 奈良国立文化財研究所、奈良県教育委員会 「法隆寺防災施設工事・発掘調査報告書」法隆寺、1985
(6) 奈良文化財研究所「法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告」,2007
(7) 斑鳩町教育委員会「法隆寺若草伽藍跡歴史講演会」2006(平成18年)
(8) 平田政彦 「焼失壁画片出土の法隆寺若草伽藍跡西方の調査成果について」
   きのくに文化財,39号, pp.1-21, 2006.
(9) 平田政彦「法隆寺若草伽藍跡」橿原考古学研究所附属博物館図録,
   大和を掘る23, pp.32-33, 2005.
(10) 石田茂作 「法隆寺雑記帖」学生社, p.203, 昭和34年(1959)
(11) 浅野清 「古寺解体」学生社、昭和44年(1969)





法隆寺収蔵庫

収蔵庫(1952年(昭和27)建立、鉄筋コンクリート造)
 
 昭和24年1月26日に法隆寺金堂壁画が焼損し、その3年後に建築家の入江雄太郎氏が設計を担当し完成した建物です。この中に焼損した当時の法隆寺金堂内部を再現した焼けた柱や壁画が当時のままで保存されており、とても痛々しい感じがします。

毎年1月26日に、この建物内で、関係者が出席して法隆寺僧侶による焼損壁画法要と、管轄の消防署の隊員等による防火訓練が行われますが、このとき、建物周囲に取り付けられたスプリングクラーから水が出て、建物は水幕で覆われます。

 2015年から文化庁に設けられた保存活用委員会(委員長 有賀祥隆氏、朝日新聞社後援)で壁画の調査が進められており、本年1月に中間報告が出されましたが、2021年の聖徳太子1400年忌に向けて、収蔵庫の一般公開も進められると聞いております。

普段は非公開で立入できませんが、夏期大学参加者には、初日午後特別公開されましたので中に入って拝観しました。 
収蔵庫の入口には阿形、吽形の金剛力士像が、仁王立ちになり、守護をしています。建物内部は焼損当時の金堂と同じ配置になっており、1号壁画から12号壁画まで70年前に焼損したままで保存されています。 

 1号壁画(釈迦浄土)、6号壁画(阿弥陀浄土)、9号壁画(弥勒浄土)、10号壁画(薬師浄土)の4枚は大型の壁で、浄土図が描かれています。 6号壁画の阿弥陀如来の頭上部には消火用ホースが入れられたあとが残ります。

 その他の壁には第2号壁画(半跏型菩薩像=日光菩薩)、第3号壁画(観音菩薩像)、第4号壁画(勢至菩薩像)、第5号壁画(半跏型菩薩像=月光菩薩像)、第7号壁画(聖観音菩薩像)、第8号菩薩(文殊菩薩像)、第11号壁画(普賢菩薩像)、第12号壁画(十一面観音像)が描かれています。

なお、収蔵庫内には、火災当時取り外してあったため、焼損を逃れた、金堂長押の20枚の飛天の壁画が保管されています。 現在の金堂の飛天の壁画は、再現壁画です。

 
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収蔵庫入口
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法隆寺聖霊院内陣


聖霊院(弘安7年(1284)、鎌倉時代、国宝) 
  間口6間×奥行5間、一重屋根、切妻造、妻入、本瓦葺、正面一間通り庇付、 向拝一間、檜皮葺
 
 聖徳太子像および侍者像を祀る神殿風に見える建物で、ここで法隆寺のご朱印(以和為貴)を頂くことができます。

 このお堂は元々は、保安2年(1121年)に、聖徳太子の薨去500回忌を記念して、僧坊東室の南側3房分を改造して、聖徳太子坐像および侍者像をお祀りするための御堂として建立されましたが、東室の損壊に伴い、弘安7年(1284年)に再建されたものです。 外陣の全体に天井を張る意匠は薬師寺東院堂や、霊山寺本堂と共通する。

 会式のときでも内陣には入れませんが、今回は内陣にまで立入り拝観しました。 内陣に入ると須弥壇に3つの厨子がありますが、正面にカーブが緩やかで優雅な日本最古の唐破風が観察できます。また、唐破風の下方には蟇股の彫刻と、聖徳太子の掛仏が架かっており、これも珍しいものです。 天井は折り上げ式で全面が小格子状となっており、 内陣の天井は高くなっています。

内陣奥には聖徳太子像および侍者像が安置されている3つの厨子があり、まじかで拝観させて頂きました。 下から仰ぐと、聖徳太子像(平安時代、桧)は、とても慈悲深く優しいお姿をされており、写真で見るのとは全く違って見えました。 仏像は立体的に刻まれているので、見る角度によって、光の当たり具合によって、まったく違う表情となるのだと、感心しました。 

 今年は、厨子の扉が大きく開かれ、林 功画伯の蓮池の蓮の葉の青緑のグラジュエーションと蓮の花の赤とピンクのグラデーションが何とも言えず、とても美しかったです。 今回はタイミングよく堂内の人数はすくなく、仏像と襖絵の美しさをゆっくりと堪能することができました。


聖徳太子および侍者像(平安時代、国宝)
 中央の厨子には聖徳太子坐像が安置されています。 平安時代の木造、彩色、切金文様、像高84.2cmです。聖徳太子像は頭上に垂飾つきの正方形の冕冠(べんかん)を戴き、朱色の袍(ほう)を着て、胸前に両手で笏(しゃく)を持ち坐っています。この像は太子45歳のときの勝鬘経講讃像とする説が有力ですが、確定している訳ではありません。
 太子像胎内には金銅の救世観音立像、3つのお経、法華、勝鬘経、維摩経が納められています。

山背大兄王・殖栗王(平安時代、国宝)
 向って左側の厨子には童形の姿をした山背大兄王・殖栗王そして金箔も鮮やかな如意輪観音像(平安時代、重要文化財)を拝観しました。

卒麻呂王・慧慈法師像(平安時代、国宝)
 向かって右側の厨子には聖徳太子の異母兄弟の卒麻呂王と高句麗から来られた聖徳太子の仏教の師慧慈法師像が安置されています。また、地蔵菩薩(平安時代、重要文化財)の額には、立派な天然真珠が嵌めこまれていました。 とても美しいお像でした。

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聖霊院(2019.1.3撮影)
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同 上
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