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鐘つけば銀杏ちるなり建長寺

10月26日は全国果樹研究連合会が「柿の日」と定め、色々なイベントが行われています。正岡子規が明治28年(1895)10月の終わりに、3日間奈良を訪問し、「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を詠んだことに因んで、10月26日を柿の日と定めたようです。 

 10月26日の柿の日に因んだ関西TVの番組で、 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句が取り上げられ、この句は夏目漱石が詠んだ、「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」という句をもとにして詠んだ句だと紹介しており、唖然としました。 番組では正岡子規は夏目漱石からお金を借りて奈良旅行したという話も紹介していましたが、これは病を押してまで法隆寺を参詣した子規の並々ならぬ法隆寺への思い入れがあったように思えてなりません。法隆寺と子規が育った伊予国とは聖徳太子以来の古いご縁があるのですから。

子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句は、漱石の「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」があって、それを真似して作った句だとかいう話がまことしやかに伝わっていますが、それは全くの推測であって、子規が書いている訳ではありません。 2つの句は全く類似しておらず、真似して作った句とはとても思えません。 子規の評価を傷つける架空のお話に過ぎません。

 2つの俳句から浮かぶ光景は、前者は広大な法隆寺の五重の塔を背景とした斑鳩三塔がある風景が浮かびますが、後者は私が子供の頃遊び場としたような田舎の小さな境内の山寺の銀杏と鐘楼の風景が浮かびます。とても真似してできた歌のようには思えません。どのように推量するのかは自由ですが、漱石に俳句を教えた子規が、「建長寺」の句を真似したなどとは、とても思えません。


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法隆寺 子規の句碑(7)

正岡子規は法隆寺へ来ずに「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を詠んだのではないかという方もおられるようですので、子規の名誉のためにも法隆寺を詠んだ句を紹介しておきます。子規全集(講談社)参照。

・法隆寺の茶店に憩ひて 
 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
・行く秋をしぐれかけたり法隆寺
  秋特有の天気で 「 しぐれかけたり」とあるので、子規が来た日は、それまで晴れていたのかも知れません。この句から、一日中雨が降っていたとは考えられないのではないか。なお、気象台のデータからその日、なにがしかの雨量が観測されていたからと言って、その日一日中雨が降っていたという証拠にはならない。
・行く秋を雨に汽車待つ野茶屋哉
  しぐれが雨になり汽車を待っていたようです
・仏舎利とこたへて消えよ露の玉
  水晶の玉の中に南無仏の仏舎利が入っていることを知っていて詠んだのではないか。
・稲の雨斑鳩寺にまうでけり
・腹に響く夜寒の鐘や法隆寺
・稲の香や汽車から見ゆる法隆寺
・むら雨や車をいそぐ紅葉狩
   この句から子規は車で出かけ龍田川の紅葉を見たのではないか。

子規年譜
1895年(明治28年)法隆寺への旅
  4月10日 従軍記者として宇品を出発、大連、金州方面に赴く
  5月10日 日清戦争講和の報受け帰航
  5月17日 帰航の途中船内で喀血
  5月23日 危篤で神戸の病院に入院
  7月23日 退院し、須磨保養院で一カ月静養
  8月25日 松山に帰省
  8月27日 夏目漱石の下宿に入る
 10月18日 東京へ向かうため三津港発広島へ
 10月19日 広島発→須磨(山陽線)
 10月26日 須磨→大阪→奈良着。 東大寺近くの角定という宿屋に宿泊
        ここで、3泊して奈良見物、法隆寺参詣
(奈良行の日程については異説もあります)
 10月29日 大阪へ帰る
 10月30日 大阪を発ち東京へ

法隆寺 子規の句碑(6)

  斑鳩町では33年前にミニコミ紙斑鳩かわら版 『ポッポ』が発行されていましたが、その縮刷版が現在、斑鳩町立図書館で閲覧できるようになっています。その第94号(1982年5月1日発行)、95号(1982年6月1日発行)で著名なN氏が、正岡子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句について書いています。前回の本ブログで紹介したA新聞の記事とよく似たことを書いています。この記事が初め「柿食えば鐘が鳴るなり東大寺」、のちに「法隆寺」に入れ替え論の、最初の震源地なのかも知れません。

 「ポッポ」の記事の要点を整理すると、
1.子規が法隆寺参詣した日は、一日中雨に降られていたようである。
2.「柿くへば」のあの有名な句の通り、子規がほんとうに柿を食べながら法隆寺の鐘をきいたのかどうか、 実は私は少々うたがっている。 その理由は子規の随筆「くだもの」の「御所柿を食ひし事」の中で、東大寺の鐘が聞こえてきた、という話が書いてあるが、法隆寺で鐘を聞いたことはいっこうにみえないからである。
3.奈良の宿で柿を食べると東大寺の鐘が鳴り、斑鳩の茶店で柿をたべると法隆寺の鐘が鳴るというのは話があまりにうますぎる。 
4.私の想像だが、最初に子規が作った句は、「柿くへば鐘が鳴るなり東大寺」ではなかったろうか。子規が法隆寺で鐘の音を聞いたかどうか定かではないが、彼は法隆寺に参詣して界隈の柿を見、または茶店で柿を食べて 「東大寺」を「法隆寺」に改めることを思いついたのだろう。

以上の要点整理で、
1.秋の天気はしぐれやすいし、変わりやすいので、台風でも来ない限り、一日中ずっと雨の可能性は少ないと思います。
2. 「くだもの」の中で、法隆寺の鐘を聞いたことが書かれていないからと言って、子規が法隆寺で鐘を聞いていないという証明にはならないと思います。子規は宿で「御所柿を食ひし事」が印象に残ったので、そのことに限って書いたのではないかと考えられます。 
3.法隆寺を訪れた人が、時の鐘を聴く可能性は、非常に高いと考えられます。現在では、午前8時から2時間おきに、午後4時まで撞かれますが、当時はもっと多く撞かれていた可能性があります。
4.子規が最初に「柿くへば鐘が鳴るなり東大寺」と詠んだのであれば、その句が残っているはずです。存在しないことを見ると、そのような句は詠まれなかったのではないでしょうか。奈良の宿で東大寺の鐘を聴いて詠んだ句は、「長き夜や初夜の鐘つく東大寺」です。なかなか素晴らしい句だと思います
5.子規は、斑鳩の里へ来て、柿の木畑広がり、三塔聳える斑鳩の風景に感激したと思います。句の前書きにあるように、七堂伽藍残る法隆寺鏡池のほとりの茶屋で柿を食べ休憩している真にそのときに、鐘が鳴ったのではないのでしょうか。 あまり疑わない方が名句が生きると思います。


現在、法隆寺には連日修学旅行生が訪れ、子規の句碑を見学しています。 案内人は昔、ここに茶店があって、正岡子規が柿を食べているとき、法隆寺の鐘が鳴り、この俳句が生まれたと説明しています。 句碑は鏡池のそばにあり、法隆寺の中門・五重塔・金堂・廻廊などの西院伽藍が見えます。ここで、西円堂の鐘がゴーンと鳴ると感動ものです。正午には1分おきに12回も鳴ります。

                法隆寺の茶店に憩ひて 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 
    
     



法隆寺 子規の句碑(5)

法隆寺には正岡子規のよく知られた「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という句碑が建っています。この碑は正岡子規の句集「寒山落木」からとった、正岡子規の自筆の書で、書き慣れた達筆の字で、
  「法隆寺の茶店に憩ひて
    柿くへば 鐘が鳴るなり法隆寺」
とあります。

子規の句碑
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句碑は鏡池のほとりにある
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この俳句は小学校で習うので誰でも知っています。私が子供のときこの俳句を習って頭に浮かんだ情景は、まだ見ぬ法隆寺というお寺の五重の塔と、夕焼けと、お寺の鐘撞き堂の光景でした。いつも遊んでいた田舎の山寺の風景を元に想像した情景です。

先日、A新聞に「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という俳句の紹介があり、
 『子規の随筆「くだもの」に書かれた話の通りだと、「柿くへば鐘が鳴るなり東大寺」であるべきかも。私見ではそれが原案であった。子規はその翌日だかに法隆寺へ行き、東大寺を法隆寺に変えたのである。田園の中の古刹、法隆寺を舞台にしたことで、鐘の音が広く遠く響く名句になった。』

 以前、法隆寺の句碑の所で、この句は元々法隆寺で詠んだ句ではなく、東大寺で詠んだ句だという人がいるので、何故そのようなことを言うのか不思議でした。しかし、この新聞記事を読んで1つの震源が分りました。正岡子規は随筆「くだもの」の中では、「柿くへば鐘が鳴るなり東大寺」なる俳句のことは一切書いておらず、月ヶ瀬出身の宿のお手伝いさんにむいてもらった柿を食べているとき、東大寺の大釣鐘の初夜の鐘(午後8時の鐘)がボーンと鳴ったと書いているだけです。 

 「くだもの」には、初め「柿くへば鐘が鳴るなり東大寺」という句を作ったとは一切書いていません。果して、暗い夜の8時に柿を食べた宿で鐘を聴いて、「柿くへば鐘が鳴るなり東大寺」という句ができるのでしょうか。 初夜の鐘を聴いて詠んだ子規の句には、
         「長き夜や初夜の鐘つく東大寺」
があり、まさにぴったりの句だと思います。 決っして「鐘が鳴るなり東大寺」とはなっていません。柿関連では多くの句がありますが、
         「奈良の宿御所柿くへば鹿の鳴く」
もあります。

東大寺には当時も今も塔はなく、七堂伽藍もそろっていないので、法隆寺とは随分寺院の風景が違っています。 はじめ、「柿くへば鐘が鳴るなり東大寺」、のちに「東大寺」を「法隆寺」にすり替えた論、は成り立たず、初めから「柿くへば鐘が鳴るなり東大寺」は、なかったのではないか、と思われます。 

七堂伽藍が揃った法隆寺へ行き、自筆の前書の通り、茶店に憩いて柿を食べていたときに、夜ではなく昼間の法隆寺の西円堂の鐘(現在は午前8時,10時,12時,午後2時,4時にその時刻の数だけ鐘が鳴るので、大抵の人はこの鐘を聴く。 当時は早朝から夕刻までもっと多く撞かれたかも知れない)を聴いて、「柿くへば鐘がなるなり法隆寺」という句を詠んだのではないかと思われます。法隆寺近辺の土は柿栽培に適しており、柿の産地であり大変においしい柿がとれます。 正岡子規が来た10月末ならば、柿のシーズンであり、茶店でおいしい柿が出されたのではないのでしょうか。変に勘ぐって、名句の価値を低めるのではなく、子規自筆の前書きを信用して、素直に茶店で柿を食べていた時に鐘が鳴ったと鑑賞した方がよほど、この俳句の素晴らしさが引き出せるのではないのでしょうか。

子規が訪れた頃の茶店(茶屋、廻廊の屋根、中門、五重塔、金堂、聖霊院が写っている)
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現在の句碑付近の風景
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飯待つ間(子規随筆集)
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青空文庫(正岡子規 「くだもの」より「御所柿部分」全文抜粋、「柿食えば鐘がなるなり東大寺」何て一言もない。)

○御所柿ごしょがきを食いし事 明治廿八年神戸の病院を出て須磨や故郷とぶらついた末に、東京へ帰ろうとして大坂まで来たのは十月の末であったと思う。その時は腰の病のおこり始めた時で少し歩くのに困難を感じたが、奈良へ遊ぼうと思うて、病を推おして出掛けて行た。三日ほど奈良に滞留の間は幸に病気も強くならんので余は面白く見る事が出来た。この時は柿が盛さかんになっておる時で、奈良にも奈良近辺の村にも柿の林が見えて何ともいえない趣であった。柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見離されておるもので、殊に奈良に柿を配合するというような事は思いもよらなかった事である。余はこの新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。或夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかというと、もうありますという。余は国を出てから十年ほどの間御所柿を食った事がないので非常に恋しかったから、早速沢山持て来いと命じた。やがて下女は直径一尺五寸もありそうな錦手の大丼鉢どんぶりばちに山の如く柿を盛て来た。さすが柿好きの余も驚いた。それから下女は余のために庖丁を取て柿をむいでくれる様子である。余は柿も食いたいのであるがしかし暫しの間は柿をむいでいる女のややうつむいている顔にほれぼれと見とれていた。この女は年は十六、七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立まで申分のないように出来ておる。生れは何処かと聞くと、月か瀬の者だというので余は梅の精霊でもあるまいかと思うた。やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜が鳴るというてなお柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという。東大寺がこの頭の上にあるかと尋ねると、すぐ其処ですという。余が不思議そうにしていたので、女は室の外の板間に出て、其処の中障子を明けて見せた。なるほど東大寺は自分の頭の上に当ってある位である。何日の月であったか其処らの荒れたる木立の上を淋さびしそうに照してある。下女は更に向うを指して、大仏のお堂の後ろのおそこの処へ来て夜は鹿が鳴きますからよく聞こえます、という事であった。

〔『ホトトギス』第四巻第七号 明治34・4・25 二〕

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青空文庫(正岡子規 くだもの)
法隆寺 子規の句碑(1)
法隆寺 子規の句碑(2)
法隆寺 子規の句碑(3)
法隆寺 子規の句碑(4)

法隆寺 子規の句碑(4)

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法隆寺の子規の句碑の裏面に松瀬青々によって書かれた字は崩し字で読みずらいですが、知人から聞いた所、以下のように書いてあるそうです。

明治二十八年秋 子規居士游履の憩ひし所に建之 碑面の書は居士自筆の句稿より拡大せるもの也
大正五年丙辰九月青々記 発起 斑鳩吟社倦鳥社同人
 

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