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磐余の道を歩く その7(吉備池廃寺)

国史跡 吉備池廃寺跡(桜井市吉備)

吉備池廃寺は舒明天皇が飛鳥時代の639年(舒明11年)に創建した初の官寺である「百済大寺」である可能性が高い寺院遺跡です。大安寺資財帳に、『百濟大寺は、舒明天皇が聖徳太子の熊凝精舎を本格的な寺院とするようにとの遺言を受けて建立した寺院であること、しかも建立直後に焼失した』ということが記されています。
 
1997年度からの調査により、百済大寺は東に金堂、西に塔を配置した法隆寺式伽藍配置であることが分りました。 東西37m×南北25mの金堂基壇、32m×32mの塔基壇が発掘されており、遺構から推定すると、高さ100m近くの九重の塔がこの地に建っていたと推定されています。飛鳥寺や法隆寺の倍以上の大きさだったようです。

百済大寺に葺かれた軒平瓦は法隆寺若草伽藍の文様と同范の忍冬唐草文が使われています。これは、聖徳太子の熊凝寺を舒明天皇が百済大寺として建立することになったので、聖徳太子が建立した斑鳩寺からこの范が提供されたと考えられます。しかも、若草伽藍の忍冬唐草文は横に交互に反転してつけているのに対して、百済大寺では同じ方向に並べ違いを出しています。

僧坊跡と見られる掘立柱建物も確認されていますが、講堂跡は未発見です。正面対岸のこんもりとした竹林の森辺りであろうと予想されています。

日本書紀によると、百済大寺は舒明十一年(639)に造営が開始され、百済川のほとりに、百済大寺と百済宮が造営されたという記述があります。百済川の名前は残っていないが、少し南側を流れる米川が百済川の最有力候補です。また西の民は宮を作り、東の民は寺を作ったという記述があります。また、日本書紀には「書直県(ふみの あたい あがた)をもって大匠とす」とあり、渡来系の書直県が建築主任となって寺の造営をおこなったことが書かれています。なお、百済川(米川)のほとりに舒明の宮殿があったと考えられますが、未発掘でいくつかの候補地が取り沙汰されています。今後の調査が待たれます。

百済大寺は「大安寺伽藍縁起流記資財帳」、「続日本紀」等によると、以下の変遷をたどり、現在、奈良市にある大安寺となります。
 
  百済大寺(舒明十一年七月詔)ー>高市(たけち)大寺(天武二年、百済大寺を移築)ー>
  大官大寺(天武六年、高市大寺改め大官大寺と号する)ー>大安寺(平城遷都後)

吉備池廃寺跡の発掘調査では瓦の出土が非常に少ないそうです。その理由として、百済大寺を高市大寺に移築したからではないかと考えられます。高市大寺の場所としては、飛鳥の雷丘(いかずちのおか)付近が有力となっています。その附近から出土する瓦が大安寺でも出土します。その後、天武六年、高市大寺を改めて大官大寺となります。大官大寺跡は飛鳥に遺跡として特定されています。平城京遷都で大官大寺は奈良市へ移され大安寺となります。大安寺から、高市大寺跡や大官大寺跡の瓦が多く出土しているそうです。

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今回訪れた吉備池廃寺跡は池の堤防に草が繁り、説明板のある場所への立ち入りはやめました。


<吉備池廃寺=百済大寺跡>
DSCF7908s.jpg

<向岸:左側 金堂跡、右側 塔跡>
DSCF7902s.jpg

<向岸:左側 金堂跡、右側 塔跡>
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<万葉歌碑1>
桜井市万葉歌碑番号32
万葉集 巻三の四一六
作者 大津皇子
「ももつたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみみてや 雲かくり なむ」
揮毫 中河幹子(なかがわみきこ)

DSCF7898s.jpg

<万葉歌碑2>
桜井市万葉歌碑番号33
万葉集 巻二の一六五
作者 大来皇女
「うつそみの 人なる われや 明日よりは 二上山を いろせと わが見む」
揮毫 小倉遊亀(おぐら ゆき)

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<桜井市100選地図(吉備池廃寺)>

IMGs_20150614014803438.jpg






 



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