FC2ブログ

奈良国立博物館 忍性展 その2

 忍性は学問不足を痛感して叡尊の弟子たちに入宋を呼びかけたが、師の叡尊は忍性に対しては日本にとどまって律を学ぶことを勧めた。叡尊の弟子の覚如、定舜、有厳らは1244年に入宋し、4年後に帰国し、「律三大部」20具を西大寺にもたらしました。定舜は後に二度目の入宋をはたし、西大寺などに「一切経」を請来しました。 忍性は、その後、京都の泉湧寺で叡尊から律を学び、後に西大寺派の律僧として、関東に赴き、戒律の普及と慈善救済事業を行い活躍しました(参照: 図録「忍性の戒律」細川凉一、p.206)。

博物館での展示で、額安寺関係の由来の絵画と考えられる、聖徳太子像(室町時代作、奈良国立博物館)と道慈律師像(室町時代、奈良国立博物館)にも注目しました。忍性が出家した額安寺は聖徳太子が建立した熊凝精舎の跡地であり、留学僧の道慈が虚空蔵菩薩を安置したのが始まりと語られています。忍性も深く聖徳太子を敬愛していたようです。

 鑑真が日本へ東征した理由の一つとして、聖徳太子が中国天台山の名僧慧思法師の生まれ代わりであるからという転生説があります。西大寺の叡尊は聖徳太子を思慕し、法隆寺の北室院とも関係が深く、鎌倉時代に法隆寺五重塔に落雷した時その時は火災を消し止めたが、その後、叡尊直筆の避雷符が各層の壁の中心に付けられています。 

 忍性は晩年1298年に「東征伝絵巻」を制作して唐招提寺に施入しました。日本に戒律を伝来した鑑真への思慕と同時に、若き日に自らの入宋渡海への思いを込めた作品で、素晴らしい絵巻です。なお、本ブログの記事、鑑真の足跡を訪ねて中国寧波・揚州の旅鑑真の足跡を訪ねて九州の旅、もご参照下さい。

なお、最後の遣唐使比叡山天台宗の高僧円仁は、すぐれた学問知識を有し、9年にも及んだ中国での旅行記「入唐求法巡礼行記」を後世に残しました。 847年に帰国した円仁は、聖徳太子は慧思法師転生説を天皇に奏上したと云われています。

 聖徳太子は622年に没したので、2022年は太子の1400年回忌の年であり、奈良県立図書情報館でも聖徳太子ゆかりの県内各市町村で、太子に関連した連続講座を開催しています。 聖徳太子ゆかりの寺院も多く存在し、今後、全国的に太子を偲ぶイベントが多くなることと思います。ご注目のほどを。


IMG_2887s.jpg

IMG_2885s_201608310012388d2.jpg

IMG_2876s.jpg

奈良国立博物館 忍性展 その1

 奈良国立博物館で開催中の忍性(1217~1303年)展に行って来ました。忍性生誕800年記念特別展で、7月23日~9月19日まで開催中です。
 
 忍性は奈良県磯城郡三宅町屏風(太子道が通る町)で生まれ、少年の頃から文殊菩薩への信仰心を持ち、16歳で大和郡山市の太子ゆかりの額安寺で出家しました。23歳のとき叡尊と出会い師のもとで西大寺で僧として活動します。 奈良では、忍性はハンセン氏病患者のための施設である北山18間戸を建て、患者は文殊菩薩の化身であるとして、毎日背負って托鉢させた話は有名です。
36歳の時、関東へ赴き、茨城県筑波山麓の三村極楽寺で活動しました。45歳の時に鎌倉に入り、51歳の時に鎌倉極楽寺で救済事業などを行い活躍します。

今回の展示は以下の6章から構成されています。
 第1章 忍性
 第2章 文殊菩薩をもとめて
 第3章 律僧として
 第4章 暁の地をめざす
 第5章 大願に生きる
 第6章 救済の日々

今回の展示で注目したものはいくつかありますが、何と言っても、3分割された忍性の骨蔵器(竹林寺、額安寺、極楽寺)と埋納品を一堂にそろって拝観できたことです。これまでは、写真で見るしかなかったのですが、すごいですね、刻印した字も見えましたよ。なお、竹林寺額安寺の五輪塔は、以前本ブログでも紹介しています。

個人的には額安寺関係の虚空蔵菩薩坐像(文化庁)、文殊菩薩騎獅像(文化庁)、国宝・額田寺伽藍並条理図(国立歴史民俗博物館)に注目しました。また、文殊菩薩騎獅像(大和郡山市西自治会)は優品でしたね。これら文殊菩薩像は忍性も見ていたと思います。忍性は文殊菩薩像を拝観するため、毎月安倍文殊院へも通っていたそうですね。

東征伝絵巻は圧巻です。これだけ見ていても一日かかります。忍性はきっと遣唐僧となって中国へ行きたかったができなかったので絵巻を残したように思われます。私は近々、文殊菩薩の聖地である五台山へ旅行に出かけます。帰ったらまた報告いたします。

IMG_2878s.jpg

IMG_2868s.jpg

IMG_2886s.jpg




















信貴山縁起絵巻特別展 その1

 奈良博物館で開催されている信貴山縁起絵巻特別展(2016年4月9日~5月22日)に行ってきました。国宝の信貴山縁起絵巻は、源氏物語絵巻、伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき)と並び日本三大絵巻の一つに数えられます。

 行った日は平日にもかかわらず、入場者が多く前列で見るためには50分待ちでした。 これまで信貴山宝物館で模写版をみたことがありますが、やはり本物は全然違いますね。会場では文化庁の復元模写版も展示されていましたが、構図は同じでも、筆致や色使いが全然違っていました。というか現代の技術では、本物の色は出せないのではないかと思いました。やはり本物を見ることは大事ですね。 図録の解説によれば、金泥・銀泥・群青という高価な顔料が画面全体にわたってふんだんに使われているとのことです。特に群青の青さは文化庁模写版の青さとはずいぶん違って見えました。
 
 平安後期(12世紀後半)に完成したといわれるこの絵巻は、信貴山中興の僧、命蓮(みょうれん)の奇想天外な奇跡を描いたもので、(1)山崎長者巻(やまざきちょうじゃのまき)、(2)延喜加持巻(えんぎかじのまき)、(3)尼公巻(あまぎみのまき)の全3巻からなります。 画面には、鉢が米俵を載せ舞い上がる、剣をまとう童子が法輪を駆動して空を駆け巡る、姉の尼公と大仏のお告げにより再会する、といった摩訶不思議な物語が躍動感あふれる筆致で描かれています。

この絵巻の作成に当たっては、贅沢三昧をした京の都の貴族や後白河法皇も関与したのかもしれません。

奈良博物館
IMG_7792s.jpg

IMG_7795s_20160515024532bff.jpg


IMG_7793s.jpg

(1)山崎長者巻
IMG_7791s_20160515024527b1f.jpg

(2)延喜加持巻
IMG_7789s_20160515024813dac.jpg

(3)尼公巻
IMG_7788s.jpg

白鳳展 その7

 白鳳展では法隆寺の幡が展示されていました。法隆寺昭和資材帳や献納宝物の中に682年(天武11年)、688年(持統2年)、692年(持統6年)の紀年銘をもつ幡があり、白鳳展でこれらのものが展示されており、圧巻でした。

693年(持統7年)に朝廷は諸国に「仁王経」を講じさせており、法隆寺に対して持統天皇は「仁王会」の料として、銅印七面、黄帳一張、経一台を寄進しています。693年頃にはすでに金堂を中心とした伽藍が出来ていたことをうかがわせます。

法隆寺の中門の仁王像は711年に納められたという記録が法隆寺にあるそうなので、その頃西院伽藍は完成したようですが、それ以前から金堂は完成し、法要も行われていたようです。今回展示された紀年銘入幡は法隆寺の歴史を考える上で大変貴重なものです。

幡(戊子年銘:持統2年(688年))1994年国宝法隆寺展図録より
IMG_2805s.jpg

法隆寺献納宝物(金銅灌頂幡 第4坪) 白鳳展図録より
IMG_2810s.jpg

東京博物館法隆寺館
 数年前東京博物館法隆寺館で献納宝物を見学したときの写真です。吹き抜けの天井から吊るされている幡にはびっくりしました。その他献納幡が展示されていました。
ZDSCF5716s.jpg

金泥銅灌頂壱具(四角の傘形天蓋から6枚1連の大幡1枚と小幡4組を吊るす) 白鳳時代
ZDSCF5731s.jpg

ZDSCF5730s.jpg

ZDSCF5726s.jpg







白鳳展 その6

白鳳展では法隆寺金堂天蓋附属透彫金具の模様に興味を持ちました。右は虺龍文を伴う大胆で力強い図案であるので670年以前の作と考える人もいるようです。左はC字紋様の組み合わせで繊細で流麗な図案であるので、670年以降の新しい製作年が考えられるようです。法隆寺大宝蔵院には同様の飾金具も常設展示されています。
なお、下図は国宝法隆寺展の図録(1994)より引用しました。

IMG_2802s.jpg
プロフィール

青龍

Author:青龍
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
萩 (2)
訪問者数
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR