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五条野丸山古墳の被葬者

 五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)の被葬者として蘇我稲目説が小澤毅氏(文献1)によって提唱されています。その理由について考えてみます。 なお、五条野丸山古墳については最近の本ブログを参照ください。

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1. 天皇陵については「日本書紀」、「古事記」、「延喜式」に記載があってしかるべきであるが、五条野丸山古墳にあたる陵墓については記載がない。 したがって、五条野丸山古墳は天皇陵とは考え難い。

2. 五条野丸山古墳が天皇陵でないとした場合、この一帯は蘇我稲目の家「軽の曲殿」(「日本書紀」欽明23年8月条)のあった場所であり、6世紀後半以降、畝傍山の東方、軽の一帯が蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷とつづく蘇我氏の本拠地の一つであり、この地に古墳を築くことのできる氏族は蘇我氏以外にはない。

3. 古墳の墳丘や石室の構築年代、前棺の造営年代は6世紀後半であり、奥棺の造営年代は7世紀初めごろとみる説が有力である。蘇我稲目の没年は570年3月(欽明31年3月)であり、年代的には前棺の被葬者が蘇我稲目であると考えても問題ない。

4. 「日本書紀」612年(推古20年)2月条に、推古天皇は欽明天皇の妃であった蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)(推古天皇の実母)を欽明天皇の檜前大陵に改葬し、軽の街で誄(しのびごと)の儀式を行ったという記述があります。阿倍内臣鳥が天皇の言葉を読み、祭器・喪服の類1万五千種を供え、境部臣摩理勢が蘇我氏の氏姓のもとについて誄を述べました。 五条野丸山古墳の奥の棺は改葬前の堅塩媛の棺と考えられます。堅塩媛は天皇妃であったので父稲目の棺より奥に埋葬されたと考えられます。改葬にあたって軽の街で挙行された誄は、改葬先(欽明陵=梅山古墳)ではなく、改葬元の五条野丸山古墳の近くで行われたと考えると、無理なく理解できます。

5.「日本書紀」620年(推古28年)10月条に、砂礫を檜前陵の上に置き、周囲に土を積んで山を作り、氏ごとに大柱を土の山の上に立てさせたという記事があります。現在、欽明陵に治定されている梅山古墳の周濠の外からもみごとな葺石が観察できます。蒲生君平の「山陵志」には1メートル近い厚さの小石で覆われているという報告があり、日本書紀の記述を裏付けています。
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<五条野丸山古墳>
<後円部のみ陵墓参考地に指定>
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<現地看板>
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<現地看板書下し>
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国指定史跡 丸山古墳 (昭和44年5月23日指定)

墳丘の全長 
約310m
前方部の先端幅
 約210m
前方部の高さ
 約15m
後円部の直径
 約21m

横穴式石室実測図
(宮内庁書陵部所蔵原図に一部加筆)
石室の全長 約28.4m
羨道の全長 約20m
羨道の幅  約1.4~2.5m
羨道の高さ 約1.3m以上
玄室の全長 約8.3m
玄室の幅  約3.6~4m
玄室の高さ 約3.9m以上
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古墳時代後期(6世紀後半頃)に築かれた巨大な前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。その全長は奈良県下で最大、国内でも6番目の規模を誇ります。
 墳丘と周濠の大部分が国の史跡に指定されているとともに、後円部頂上の木々が茂っている場所は陵墓参考地(りょうぼさんこうち)(畝傍(うねび)陵墓参考地)となっています。五条野町(ごじょうのちょう)・大軽町(おおかるちょう)そして見瀬町(みせちょう)に亘(わた)る丘を削(けず)ったり、土を盛り上げて造ったと考えられています。後円部上には南に開く横穴式石室(よこあなしきせきしつ)があり、その全長は石舞台(いしぶたい)古墳(奈良県明日香村(あすかむら))よりも約9m長く日本最大の規模です。また、他の古墳と比べて丸山古墳の羨道(せんどう)は、玄室(げんしつ)に対して非常に長く造られていることも特徴の一つです。
 玄室内には2基の刳抜式家形石棺(くりぬきしきいえがたせっかん)があり、奥にある石棺と手前にある石棺が逆L字形に配置されています。石棺の蓋にある縄掛突起の形などから手前に置かれている石棺が古く、奥の石棺が新しいと考えられています。また、両石棺の石材は兵庫県(ひょうごけん)の加古川(かこがわ)付近で採られた竜山石(たつやまいし)(凝灰岩(ぎょうかいがん))を利用しています。
 丸山古墳に葬(ほうむ)られた人は、欽明天皇(きんめいてんのう)や蘇我稲目(そがいなめ)など当時の我が国を治めた人物が有力視されています。
                                 橿原市教育委員会
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参考文献
1)小澤毅“五条野丸山古墳は誰の墓か”、季刊 明日香風 第82号

丸山古墳

下ツ道(終点附近)その7(最終回)です。 今回は丸山古墳について報告します。

近鉄八木西口⇒小房観音⇒藤原京跡⇒本薬師寺跡⇒大窪寺跡⇒軽衢⇒厩坂寺跡⇒軽寺跡⇒軽豊明宮跡⇒見瀬丸山古墳

<丸山古墳(橿原市五条野町・大軽町) 国史跡>
 
 下ツ道(しもつみち)の最終点と考えられる地点に丸山古墳(見瀬丸山古墳、五条野丸山古墳)がある。 全長310m、全国6番目の大きさをもつ巨大な前方後円墳で、6世紀後半に築造された「最後の巨大前方後円墳」で大王を葬ったとみられている。現在は、後円部墳頂部だけが宮内庁により陵墓参考地として治定されている前方部は開墾され、特に先端部は国道169号線によって削りとられている。周濠も一部は溜池として痕跡をとどめるが、宅地化され外堤とその外側の周庭帯も濠と同じく畑や宅地となっている。

 裾の張った前方後円墳で四段築成。埴輪や葺石などをもたない。全長310m、後円部1段径約150m、2段径120m、3段径70m、4段径43mである。また、後円部高さ21mある。前方部幅210m、前方部高さ15mである。
 
上段の南西に開口した横穴式石室をもつ。石室には石棺が2つおさめられている。平成3年(1991)、偶然に石室内が撮影され30枚ほどの写真がもとになって、専門家によって学術的価値が高いことが認められた。1992年に宮内庁が独自に調査した。その結果、石室全長が28.4m、羨道長さ20.1m、幅1.4~3.3m、高さ1.4~2.5m。玄室の長さ8.3m、幅3.5m~4.1m、高さ3.6~4m。なお、宮内庁発表とは別に、石室内の石棺については2つとも大型家形石棺で、奥壁に沿って一基(7世紀初)、その手前にもう一基(6世紀後半)があり、いずれも身は土に埋まってふただけが見えている。ふたは両方とも開き盗掘をうけているようである。

宮内庁によると石室の石材は、羨道奥手と2つの棺を納めた玄室が黒い斑点のある飛鳥地方の花崗岩である。羨道前半部は花崗岩であるが系統が異なる。前半部の石積が雑であるが、後半部は石の表面をそろえるように整然と積まれている。

被葬者として571年に没した欽明天皇が有力視されている。「日本書紀」によれば、推古天皇が612年に母の堅塩姫を父の欽明天皇陵に改葬して、軽の地で盛大な埋葬の儀式を行ったとある。古墳には2つの石棺があり手前が欽明天皇、奥が堅塩姫であるという説もある。

かっては、天武・持統合葬陵に考えられていたこともあるがその説は否定され、近年では蘇我馬子の父稲目を被葬者とする考えも提示されるなど諸説がある。

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<国史跡 丸山古墳(後円部墳頂部)>

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<後円部周囲>
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<現地看板>
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<丸山古墳全景>
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<丸山古墳前方部墳丘上>
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<国道169号が前方部を削る>
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<丸山古墳全体地形図>
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<植山古墳(ブルーシート)方面>
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