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本薬師寺に咲くホテイアオイ

本薬師寺のホテイアオイは見頃を迎えています。行った日はときどき雨が降っていましたので、田んぼの中のあぜ道はぬかるんでいましたが、綺麗に咲いていました。毎年、池になる場所が違っており、風景も異なっているはずですが、見分けがつきません。しかし、今年気が付いたことは東塔の東の方に、蓮池が広がっており、ちらほらと蓮の花が咲いていました。本薬師寺には蓮がふさわしい花ではないのかとふと考えましたが、色々な花が一面に咲くのは素晴らしいことです。

 本薬師寺の創建は白鳳時代ですが、元薬師寺と平城京薬師寺が併立した時代もあったようです(本ブログ参照のこと)。現在開催中の独立行政法人奈良博物館の白鳳展には現薬師寺の月光菩薩が展示されていましたが、白鳳時代製作として扱っていましたので、薬師三尊はここ元薬師寺にあった仏像が遷座したものであると思うと何か感慨深いものがありました。しかし、本堂まえの立派な礎石や東塔、西塔の礎石が説明版もなく、配置してあるのを見ると少し残念に思いました。

西方向(畝傍山、西塔方向のホテイアオイ)
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正面畝傍山
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正面畝傍山
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正面畝傍山
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正面畝傍山
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東方向(香久山、東塔方面)

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蓮も咲いていました
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東塔四天柱
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東塔心柱
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本堂前(金堂跡礎石群)

本堂
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礎石群(説明看板なし)
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本薬師寺跡に咲くホテイアオイ

 2014年8月28日、橿原市の本薬師寺跡に咲く「ホテイアオイ」が満開であるとの話を聞き、写真を撮ってきました。 西塔跡を囲む田んぼの農園の中に、
---------------------ホテイアオイ定植農園
- ---- -------------  うねび北小学校の2年生が植えたホテイアオイです。
----- - ------------- 主催:城殿町霜月会


という看板がありました。周辺のホテイアオイはすべてボランティアの方が植え付けて本薬師寺跡に花を添えておられます。 大変綺麗で大勢のカメラマンが来ておられました。

本薬師寺跡は世界遺産候補「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の一つにリストアップされています。堂跡にむき出しの礎石があったり、東塔跡には四天柱や側柱の礎石が残っており、すぐにでも塔が建てられそうです。ホテイアオイの看板に負けない、もう少し丁寧な説明板があるといいですね、2倍楽しくなりますよ。 

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<畝傍北小学校ホテイアオイ農園> 右後方は本薬師寺西塔跡

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<樹木の場所が東塔跡>

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<背景は畝傍山>
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<東塔心柱礎石穴もホテイアオイ農園>
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本薬師寺跡

下ツ道(終点附近) その3(本薬師寺跡)

 2014年4月18日下ツ道終点附近の史跡を訪ねましたが、レポートが途切れていましたので続報です。
 ルートは以下の通りです。今回は本薬師寺跡について報告します。

近鉄八木西口⇒小房観音⇒藤原京跡⇒本薬師寺跡⇒大窪寺跡⇒軽衢⇒厩坂寺跡⇒軽寺跡⇒軽豊明宮跡⇒見瀬丸山古墳

本薬師寺跡 (橿原市城殿(きどの)町268)
 
 本薬師寺跡は藤原京大極殿の南西方、藤原京八条二坊にあり、国特別史跡である。
 この寺は680年に、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を願って建てた寺である。しかし、そのご皇后の病気は平癒したが、天武天皇が病気になり686年(朱鳥元年)に天武天皇は没した。この寺の造営は持統・文武天皇の時代も続き698年に完成したとされるが、701(大宝元年)6月11日に「造薬師寺司」が任命された記録(続日本紀)があり、8世紀になっても造営が続けられたとされる。 

710年(和銅3年)の平城遷都に伴い、飛鳥地方の諸寺も新都に移ることになり、薬師寺も現在の地(平城京右京六条二坊)に移った。旧地には伽藍の一部が残って、それ以後は本(もと)薬師寺と呼ばれるようになった。平安中期まで伽藍が存在していたようである(右大臣藤原宗忠の日記「中右記(ちゅうゆうき)」)。1952年(昭和27年)特別史跡に指定された。

本薬師寺跡には金堂・東塔・西塔の基壇と礎石が残されておりこの部分だけが国の特別史跡に指定されている。寺域は藤原京右京八条三坊の全域(2町四方)におよび、左京の大官大寺と相対する位置に置かれたと考えられる。

金堂(桁行七間、梁間四間)・東塔・西塔については両塔間の距離は約71m、金堂中心から両塔中心を結ぶ距離は約30mである。平城京薬師寺の堂塔の規模や相互の距離がよく一致するので、往時の盛観を現在の薬師寺によって想像することができる。

ただし、中門や回廊の発掘調査から規模や構造などが現在の平城京薬師寺とは異なることが明らかになっている。

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画像は訪問日以外、色々な時期に撮影したものを含みます。

<看板>
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<看板文章書き下し>
特別史跡 本薬師寺跡(もとやくしじあと)
昭和27年3月29日指定

本薬師寺は、「日本書紀」によると天武9(680)年に天武天皇が皇后(持統天皇)の病平癒(やまいへいゆ)を祈念して発願された寺です。寺の建立が開始された時期は不明ですが、天武天皇崩御後の持統2(688)年(『日本書紀』)に行われた仏事には少なくとも堂塔の一部が完成していたと考えられています。その後、持統11(697)年(『日本書紀』)に開眼会が開かれ、翌年の文武2(698)年(『続日本紀』)に伽藍はほぼ完成したと伝えられています。
 寺域は藤原京右京八条三坊を占めていましたが、平城京遷都に伴い養老2(728)年に平城京右京六条二坊に移転されたことが『薬師寺長和縁起』によって知ることができます。『中右紀』によると、寺が移転した後も平安時代中頃まで伽藍の存在が確認できます。また、この頃には平城京の薬師寺に対して本薬師寺と呼び、区別するようになりました。伽藍は、中心に金堂、その前面、左右対称に東・西塔を配置し、南に中門を開きその両翼から回廊を巡らせ金堂北側の講堂に取付くいわゆる薬師寺式伽藍配置と呼ばれるものです。
 発掘調査は1976年の寺域西南隅での調査に始まり、金堂・東塔・西塔・中門・回廊の一部で行われ、貴重な成果が得られました。金堂・東塔・西塔は、基壇等の規模が平城京薬師寺とほぼ同じである一方、中門・回廊は、規模・構造ともに異なることが明らかになりました。伽藍の造営は金堂に始まり、続いて東塔・中門・回廊さらに遅れて西塔の順に行われたことが分かりました。また、中門北側の調査で、寺の造成土の下層から西三坊々間路を検出し、最初に藤原京の条坊道路が設置され、それを埋めたてて造営したことが確認されました。従来は堂塔の位置関係や礎石配置が平城京薬師寺と一致することから移建説が有力視されていましたが、発掘調査により一部の堂塔は移建されないまま旧地に残っていた可能性があることが判明しました。以上のように、白鳳時代を代表する遺跡として本薬師寺跡の占める位置は極めて大きいものといえます。
   橿原市教育委員会



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万葉歌碑
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<金堂跡付近>
 大きい礎石がたくさん置かれています。圧巻です。

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<塔跡>

 心柱と四天柱の礎石が残っています。生きた教材です

東塔
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西塔
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シーズンになると本薬師寺はホテイアオイで埋まります。非常にきれいです。

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