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郡山新木山古墳 その4

郡山新木山古墳 その4(最終回)です。 

富雄川水系は川幅は狭く大和川に注いでいます。普段は水流は少ないですが、近年、上流で田をつぶし開発が進み遊水池機能がなくなっていますので、大雨になると一気に川があふれます。

<小泉郷七個郷用水路改修記念碑>

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<富雄川満水:碑付近(2014.8.10)>
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3.古い記録における郡山新木山古墳

 1681(延宝9)年に刊行された林宗甫による「大和名所記」(内題「和州旧跡幽考」)第5巻に「美濃山二基陵 植槻の南 いずれの御代の陵にやしらず」という記述があり、当時、陵であると考えられていたことが分かります。また、1872(明治5)年の宮内庁による調査報告「諸陵寮回議冊第一」の絵図(紀要に引用)は現在の墳丘とほとんど変わらない状況が確認できます。さらに、1893(明治16)年に刊行された野淵龍潜による「大和国古墳墓取調書」には「諸陵寮回議冊第一」とよく似た墳丘の絵図が掲載されていますが、後円部と西側を削平して造られた奈良街道が描かれています。以下に「大和国古墳墓取調書」から絵図を引用します。これを見ると奈良街道は東の方向へ(旧市街地の方向へ)通っていたようです。

<新木山古墳:「大和国古墳墓取調書」絵図>

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4.郡山新木山古墳の築造年代

出土遺物の8割は埴輪片で、大半は円筒埴輪や朝顔形埴輪であるが、その他にも家形埴輪、囲形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪が確認できます。また、造出部から囲形埴輪、笊形土器などが出土し、その場所での祭祀を考える参考となります。

出土したすべての埴輪片は野焼きによる黒斑があるので、川西宏幸氏による編年案のⅢ期に相当し、従来、この古墳を後期古墳とする見解(服部 “44 郡山新木山古墳”、大和前方後円墳集成(橿原考古学研究所編)、学生社、2001)が多かったが、中期古墳であることは明らかである。郡山新木山古墳の築造年代は約100年遡ることになる。これはきわめて貴重な成果であり、郡山地域の歴史を考えるうえで重要な資料となります。

 なお、発掘により古墳の墳丘は、築造時より、かなり改変を受けていることが明らかになり、築造当初の状況を知る手がかりは得られませんでした。しかし、その改変が豊臣秀長による郡山城整備に伴う葺石の抜き取りや、明治維新後の奈良街道整備による削平の可能性を指摘できるとしています。今後、古文献調査などの面から検討していく必要があります。
 

郡山新木山古墳 その3

郡山新木山古墳 その3です。 

 宮内庁書陵部紀要64号(2012年度)「郡山陵墓参考地整備工事予定区域の事前調査」という報告書を読みました。2011年に発掘調査をして2012年の紀要に掲載ですから素早い報告です。 奈良県下の発掘調査では、割塚古墳のようにかなり重要な調査であっても、何年たっても報告書が出ないことがあるので雲泥の差です。 紀要を読んで、興味をもった事柄について思いつくままにレポートします。

1.     墳丘測量図を新たに作成

1921(大正10)年に測量されて以来、墳丘測量図が更新されていなかったので、今回新たに測量図が作成されました。古墳東側や南側の濠では浸食や杭の破損が見られ護岸工事をしたいが、地元水利組合の了解が得られず、外構柵整備だけをすることにしたと書いてあります。紀要から引用した新・旧墳丘平面図合成図を以下に示します。また、各側面の現時点で撮影した画像も掲載しますので、測量図と合わせて古墳の現状を理解する参考になるかと思います。

<新・旧測量図(紀要より)>
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<前方部南東コーナ養魚池>
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<前方部南東コーナ養魚池>
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<古墳東側遠方から見た風景:池は古墳の濠ではない>
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<前方部削平部:新設された柵で囲まれている。手前は造り出し部>

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<後円部北側端>
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<前方部西南コーナ>
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2. 郡山新木山古墳の水系の位置付け

郡山新木山古墳は西の京丘陵の最南端にありますが、「立地や墳丘の側面観などから見て、富雄川の水系に位置づけることが適当と考えられる」とあります。まったく当を得た考えだと思います。富雄川水系には郡山新木山古墳から4km以内に、
 ・小泉大塚古墳(墳長88mの前方後円墳:前期前半)
 ・富雄丸山古墳(直径86mの円墳:前期後半)
 ・六道山古墳(墳長100mの前方後円墳:後期初頭)
 ・割塚古墳(直径49mの円墳:後期前半)


があります。郡山城周辺に、消滅した埴輪が出土した古墳が存在していたとすれば、この地域は古墳時代を通じて安定的な基盤をもっていた地域とみることも可能です。なお、斑鳩町の古墳は富雄川水系にあります。 聖徳太子の上宮遺跡は富雄川沿いにあります。

また、佐保川と大和川の合流地点には額田部丘陵があり以下の古墳、
 ・松山古墳(直径52m円墳:中期前半)
 ・額田部狐塚古墳(墳長50mの前方後円墳:後期後半)


と郡山新木山古墳との関係に注意が必要です。

郡山新木山古墳 その2

郡山新木山古墳 その2です。 
現地説明板の全文を書き下します。
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             新木山古墳(にきやまこふん)

新木町にあり、陵墓参考地にされている。丸山古墳とも呼ばれている大形の前方後円墳である。墳丘は南南西に前方部を向け、全長122.5m・後円部径67m・前方部幅75m、周囲には馬蹄形の堀を巡らせていた。現在は墳丘の西北部に県道が通り、北西から西側は破壊されて、数基あったといわれる陪塚もすべて消滅している。

                 平成5年10月 大和郡山市
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<郡山新木山古墳図面:有史会「遺跡地図」より)
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<県道と前方部>
県道によりかなり古墳が削られています。
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<後円部>
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<前方部と造出し部>
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郡山新木山古墳

 宮内庁管理の郡山陵墓参考地は、大和郡山市新木町に所在する全長約120mの前方後円墳で、遺跡名は「郡山新木山古墳」と呼ばれます。この古墳から千数百メートルの距離に著名な径49mの割塚古墳(6世紀前半)や小泉大塚古墳(全長88m前方後円墳)、六道山古墳(全長100m前方後円墳)が位置し、いずれも富雄川水系に所在する古墳であると考えられます。
 郡山陵墓参考地は、柵設置に伴い2011年11月宮内庁により初めて調査が実施され、出土した埴輪から従来、後期古墳(6世紀ごろ)とみられていましたが、中期古墳(5世紀ごろ)であることが分り、築造年代が約百年遡ることが明らかになりました。このことにより、郡山新木山古墳は佐紀古墳群の南のおさえの古墳として位置付けることができるようになりました。
 宮内庁書陵部紀要2012年度版に「郡山陵墓参考地整備工事予定区域の事前調査」が掲載されています。今後、その内容について紹介する予定です。割塚古墳の調査報告書が早く公表されると、郡山新木山古墳と関連つけて考える手がかりが得られるかも知れません。

<郡山新木山古墳:前方部>
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<郡山新木山古墳:前方部と溝>
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