西光院(葛城市竹内、浄土宗・知恩院派)
本尊は阿弥陀如来坐像(77cm)で檜の一木造り、平安後期の作。本尊に向かって左脇檀に地蔵菩薩立像(84cm)が安置され、檜の一木造、平安後期の作で、大正2年(1913)に国宝に指定されましたが、現在は重要文化財です。Y字型の衣文が美しい。
観音堂の本尊観音菩薩立像(185cm)は、長谷寺式十一面観音で、「みそぎ観音」とも呼ばれています。近江から大木を運んだが、木が長すぎて竹内峠を運べないので一部を切り落し、その木で作ったのがこの観音菩薩であるという言い伝えがあります。身をそいでまで衆生済度の願いを立てられたという。
寛延3年(1730)の吊り鐘があります。戦時中の供出で2カ所に穴があけられています。
西光院山門






西光寺から大和三山眺望

西光院を出て竹内街道に戻り、街道を西へどんどん登って行きます。竹内集落の端まで歩くと国道166号に出ます。この道は現在の竹内街道で、磯長谷へ通じています。道が大きくカーブするコーナーに少なくとも3基の古墳の高まりの丘が見えます。これを史跡の丘と呼んでいます。
史跡の丘(古墳群)

史跡の丘を東方向へ進み横大路へ入ります。横大路を2km以上東へ進むと大和高田市長谷本寺に到着しました。
長谷本寺(別名橋本寺、大和高田市南本町)
真言宗豊山派、開山は和銅~養老年間(708~715)、南都の大満上人と寺伝にあります。
本尊は長谷寺式の十一面観音、像高五尺一寸五分、檜の一木造。藤原初期の作。県指定文化財。
本尊脇に立つ毘沙門天も県文化財に指定されています。
長谷本寺

本尊長谷寺式十一面観音立像(県文化財指定)

西国33カ所観音霊場

釈迦涅槃図(江戸時代)


庚申日のご本尊青面金剛立像

紀州屋敷(奈良市中辻町)
上街道が循環道路と交差する場所に江戸時代から紀州和歌山藩の屋敷があり、その長屋門が1988年(昭和63年)までここに残されていました。現在は大きなマンションが建ち、そのそばの公園に紀州屋敷跡の看板が立てられているだけです。


崇道天皇社(奈良市西紀寺町)
赤い大きな鳥居の入口に「崇道天皇社」と刻まれた神社があります。祭神は早良親王です。一間社春日造・檜皮葺で、旧春日若宮社本殿を1623年(元和9年)にこの地に移したもので、重要文化財に指定されています。平成天皇の御宇、806年(大同元年)に創建され、紀寺(後の、璉珹寺)の鎮守として祀られていたといいます。八所御霊の一座です。境内社に祓戸社・天満宮・稲荷社の三社があります。なお、明治8年(1875)までは西向きでしたが、現在では南面して本殿があります。






璉珹寺(奈良市西紀寺町)
崇道天皇社の南に璉珹寺(れんじょうじ)があります。紀寺の跡で、聖武天皇の勅願で行基の開基とされ、紀有常は中興したと伝えられています。現在宗派は浄土真宗遣迎院派に属しています。本堂内陣中央に秘仏の本尊阿弥陀如来立像を祀ります。県指定文化財である。右脇檀に観世音菩薩立像(平安初期)、左脇檀には勢至菩薩立像(室町時代)が祀られ共に国の重要文化財に指定されています。



本堂



井上神社
祭神は井上内親王(聖武天皇第一皇女、光仁天皇皇后)、他戸(おさべ)親王です。


元興寺町
元興寺の旧境内に元興寺町が作られました。

崇道天皇神社(奈良市出屋敷町)
崇道天皇を祀る神社で一間社、春日造り、銅板葺で、珍しい石の獅子一対がある。

石燈籠(奈良市肘塚(かいのづか)町)
上街道から奈良の街へ入る口である肘塚町に石燈籠が建てられています。近世の上街道は奈良から三輪・初瀬・伊勢に通じる伊勢参りの道として、人馬の往還が盛んでありました。石燈籠には「文政十三年(1830)庚虎五月」「天照皇太神宮」「春日大明神」と刻んであります。往時の「おかげまいり」を偲ばせます。 JR奈良駅前広場にも奈良への西の入口として、大きな石燈籠一対が建っています。古来「奈良七口」があり、奈良への7箇所の入口がありました。

奈良七口

JR京終(きょうばて)駅
京終(きょうばて)という珍しい駅名がついています。京終(きょうばて)は奈良の京の終わりという意味です。 今は、無人駅と化し寂びれています。1898年の駅舎開業時の建物が残っています。JR西日本は無人駅とし社員で駅舎を管理できないのであれば、地域住民に開放して、有効活用を考えてもらってはどうかと思いました。


飛鳥神社(京終天神社、奈良市北京終町)
もと平城坐飛鳥大神社と称し、元興寺の鎮守であった。710年飛鳥から左京四条の道筋の北に鎮座し、国家鎮護の社と定められ勢いを示したが、南都側は衰退し、1451年、1532年の土一揆で再興の機を失い、現在の京終の地に祀られている。



奈良町
元興寺の旧境内を中心とした一帯を奈良町という。奈良時代は元興寺を中心にこの一帯は栄え、平安京遷都後も勢いが保たれたが、1451年の土一揆により、焼土と化した。しかし、地域住民の力で草地を復興し、寺跡一帯に町作りを行った。江戸時代には上街道を利用したお伊勢参りの宿場町として栄えた。また、江戸末期から明治・昭和にかけては奈良を代表する晒などの産業や商業の中心地となった。1980年代から奈良町のまちづくり運動が活発に行われ、観光客がたくさん訪れるようになった。
春日若宮神社(奈良市南永井町)
上街道を北上すると冨池の西側、JR桜井線沿いに春日若宮神社が鎮座します。祭神は天忍雲根命です。その左に天照大神社があります。鉄道がつくまでは本殿は西向きでしたが、1887年に本殿・拝殿の位置が変更され、現在の配置になりました。

春日若宮神社




上街道北上

彼岸花

北永井集落

崇道天皇神社(奈良市北永井町)
奈良市北永井の集落に崇道天皇神社と祐楽寺が南北に隣接してあります。 崇道天皇神社は上街道界隈に多く鎮座します。 祭神は早良親王(崇道天皇)で、桓武天皇の同母弟です。 早良親王は、はじめ出家しましたが、父光仁天皇の即位とともに親王になり、781年(天応元年)、桓武の即位と同時に皇太子になりました。桓武にはすでに皇子がいたのだから、光仁天皇の意志が働いたのであろう。このため、桓武天皇とは円満ではなく、桓武の信任厚い藤原種継とも不仲でありました。 784年(延暦3年)長岡遷都が行われたが、その主導者の藤原種継は翌年暗殺されました。事件の首謀者として大伴継人、大伴竹良と前月に病死した大伴家持らが処分されましたが、早良親王も関係者として、乙訓寺に幽閉され、自ら食を断って、淡路へ移される途中、船中で没しました。そのころ、皇室に種々不幸が起き、悪疫も流行し、親王の祟りとして恐れられ、墓を奈良市八島町に改葬し、祟道天皇と追号し、八嶋陵を営みました。京都市上京区の御霊神社にも早良親王が祀られています。


祐楽寺(奈良市北永井町)
崇道天皇神社の北隣に所在します。もとその神社の別当坊であったという。永井山と号し浄土宗知恩院の末寺です。本尊は阿弥陀如来です。1592年(文禄元年)の創建。本堂は1854(安政元年)の大地震で倒壊し、昭和48年に改築しました。
このお寺は中世にこの地に拠点を置いた長井氏の菩提寺と伝えられます。長井城は崇道天皇神社や祐楽寺の存在する付近が推定されます。


今市城跡(奈良市今市町)
帯解台地の西端に今市城跡があります。中世の平城としては、大和国最大級の遺構を残しています。南は現在ガマ池となっており、北は長い外堀で区画している。その間に東西に長い城域があり、4本の堀で仕切られていましたが、ほとんどが埋め立てられ、西の二本の南端がガマ池の岸の入れ込みの形で辛うじて残っています。

今市には大乗院方衆徒の今市氏の居館がありましたが、大和の政権を争う大きな勢力、主として北部の筒井方と南部の越智方が交互に陣取りし、南都制圧の拠点として覇権を争いました。多聞院日記には、1566年3月15日松永久通(久秀の息)が今市城の城破りに出立したという記事があるので、筒井方が今市城を使っていたことが、伺えます。

今市城外堀跡説明板

今市城外堀跡

ガマ池西側くびれ部

ガマ池西側入れ込み部

ガマ池西側入れ込み部

春日神社

ガマ池東側