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6月の飛鳥 飛鳥寺3

 日本書紀によると、596年(推古4年)冬11月に飛鳥寺が落成し、蘇我馬子の長男善徳臣(ぜんとこのおみ)を寺司(てらつかさ)に任じ、この日から高句麗僧慧慈(えじ、聖徳太子の師)と百済僧慧聡(えそう)が飛鳥寺に住したとあります。飛鳥寺は蘇我氏の氏寺でしたが、のちの僧鋼(全国の僧尼を統括する組織)を構成する僧が居住したようです。

 飛鳥寺の本尊飛鳥大仏(銅像、釈迦如来像、重要文化財)は、推古天皇によって詔され、609年(推古17年)に、鞍作鳥(くらつくりのとり、止利仏師)によって造られた日本最古の仏像です。平安・鎌倉時代に火災で罹災し後補を受けていますが、建物は再建され、当初と同じ台座があった中金堂の同じ場所に安置されています。

飛鳥大仏台座
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聖徳太子絵伝(推古天皇の命により飛鳥大仏を造る止利仏師)
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飛鳥大仏(創建以来同じ場所に鎮座)
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飛鳥大仏を拝観すると、どっしりと構えていて、なぜか落ち着きます。 お顔は法隆寺のご本尊のお釈迦様と大変よく似ていますし(仏師が同じですので当然か!)、右手と左手の印も同じです。指の爪までよく似た形をしています。 顔の輪郭は長方形で、目ははっきりと開いており、口角は少し上がっているので、アルカイックスマイルなどと形容されているようです。飛鳥大仏には脇侍が不在ですが、光背も含めて、復元三尊像のイラストが展示してありました。

飛鳥大仏(右手は施無印、左手は与願印)
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修復されたお顔(火災の跡が痛々しい)
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爪もあります
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飛鳥大仏(復元三尊像)
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飛鳥寺中庭
飛鳥寺形石燈籠(南北朝時代)
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飛鳥寺の寺域はおおよそ東西215m、南北293mの領域と考えられていましたが、その後の調査で掘立柱で囲まれた不整な五角形をしていることが分りました。また、662年(天智元年)に法相宗の祖である道昭が玄奘三蔵に学び帰国して建立した東南禅院が飛鳥寺域内にあります。

飛鳥寺北限(道路が北限のようです)
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飛鳥寺西門跡
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参考文献
飛鳥資料館「飛鳥寺2013」、図録第58冊、2013.
坪井清足他「飛鳥の寺と国分寺」、岩波書店、1985.






6月の飛鳥 飛鳥寺2

 飛鳥寺の発掘調査は、国立奈良文化財研究所(当時、現在は独立行政法人)によって、今から60年前の、1955年~1956年(昭和30~31)に行われました。 飛鳥寺の伽藍配置は当初の予想に反して、中央に塔を配し、周りを、中金堂、東金堂、西金堂が囲む一塔三金堂式でした。 一塔三金堂式は戦前日本の研究者が平壌で発掘した清岩里廃寺、上五里廃寺に例があります。しかし、百済の工人が指導して造営した飛鳥寺が、なぜ百済には例がない、一塔三金堂式となったのかは謎です。

<舎利と埋納品>
 塔基壇の地下3mに心礎を据え、舎利孔から1196(建久7年)に再埋納したものが取り出されました。 舎利埋納物には、硬玉、メノウ、ガラスの勾玉、管玉、切子玉、銀製空玉、トンボ玉、小玉、金環、金銀延板、杏葉型金具、馬齢、瓔珞、蛇行状鉄器、挂甲、砥石状石製品などがあり、6世紀末の後期古墳の副葬品とほぼ共通するものです。これらの埋納物は残念ながら現在は飛鳥寺にはなく、奈良文化財研究所にあるそうです。飛鳥寺にあれば、現物を見て紹介もできるのですが…。

 なお、法隆寺五重塔の地下2.7mの心礎に埋納されていた舎利は、心柱が腐っていたため、偶然に発見されましたが、心柱の補強をして、再度地下に埋納されています。

飛鳥寺伽藍復元図(飛鳥寺展示品、一塔三金堂式)
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飛鳥寺伽藍復元図(飛鳥寺展示品、中門・塔・金堂)
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伽藍全景写真(飛鳥寺展示品、上:西門、左:南大門・中門・塔・金堂、東金堂、西金堂)
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塔・金堂間参道と燈籠台(飛鳥寺展示品)
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塔心礎は地下3m
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塔説明版(住職の声が聞こえてきます。私には、舎利を返せ、と聞こえました。)
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6月の飛鳥  飛鳥寺1

 2016年6月24日の飛鳥は雨となりました。飛鳥の里は今丁度田植えが終わったばかりで、美しい緑のじゅうたんがどこまでも続いていました。ここは、田園風景の中で、日本の古代史の一こまに思いを馳せる、かけがえのない場所です。この日はまず、明日香村飛鳥に位置する飛鳥寺(真言宗豊山派、安居院という)を、おとづれました。

飛鳥寺では住職から飛鳥寺の歴史や飛鳥大仏についてお話をお聞きしました。また、飛鳥寺出土の瓦などの遺物や仏像などの見学をさせて頂きました。

その昔、学生時代に犬養孝先生から、現在飛鳥寺のあるあたりを「真神原」とよぶことを、次の万葉集、
  「大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに」 (犬養孝著「万葉の旅」(上), p. 94, 2006, 平凡社)
の講義の時に教えて頂きました。

「真神(まかみ)」とは狼の意で、日本狼は口が大きく、「真神」に「大口」という「枕詞」がついたと聞いた覚えがあります。飛鳥は狼のでるような原野で、蘇我氏は吹雪舞う荒野を開拓して、飛鳥寺を建立したのでしょうか。

日本書紀、崇峻元年(588年)是歳条には、百済が僧、仏舎利、建築工を献上した。寺院建築工二人、露盤博士一人、瓦博士四人、画工一人を派遣し、「飛鳥衣縫造の先祖の樹葉の家をこわして、はじめて法興寺を造営した。この地を飛鳥の真神原と名づけた。または飛鳥の苫田ともいう」(宇治谷孟「日本書紀」下、講談社学術文庫)。

<参考文献>
坪井清足著『飛鳥寺』、中央公論美術出版、昭和39年2月10日初版、平成27年7月31日22版(飛鳥寺で購入)

<飛鳥寺の歴史>
崇峻元年(588)是歳条 蘇我馬子法興寺造営を発願。百済から工人渡来。
崇峻三年(590) 十月  山に入って寺の用材を伐採した。
崇峻五年(592) 十月  法興寺(飛鳥寺)の仏堂と回廊の工事を開始した。
崇峻五年(592)十一月 崇峻天皇、蘇我馬子に殺される。
推古元年(593) 一月  塔の心礎に仏舎利安置
推古四年(596)十一月 飛鳥寺の建物完成
推古十三年(605)四月 推古天皇、鞍作止利に丈六の仏像と繍仏の作成を命ずる。
推古十四年(606)四月 丈六の仏像と繍仏が完成し金堂におさめられた。

香久山方向
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藤本山方向
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橘寺方向
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入鹿の首塚方向
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入鹿首塚・甘樫丘方向
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飛鳥寺山門
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縁起
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飛鳥大仏
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聖徳太子像
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飛鳥寺伽藍復元図(予想)
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飛鳥寺の瓦

 2012年10月12日、奈良世界遺産市民ネットワーク主催の小笠原好彦氏による古代史講座「飛鳥寺に葺かれた10弁・11弁軒瓦とその背景」が開催されました。

「日本書紀」崇峻元年(588年)の記事によれば、日本最古の寺である飛鳥寺(当時は法興寺と呼ばれた。)は、百済から仏舎利と僧6名、寺院建築工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名が派遣されて、その技術指導の下で造営されました。

瓦博士が4名も派遣されたのは何故か、飛鳥寺は百済の首都扶余では例がない、1塔3金堂(中金堂、東金堂、西金堂)式であるのは何故か、等多くの疑問点があります。

 小笠原氏は瓦製造の模擬実験を踏まえて、瓦製造には最低二人が必要なこと、また、その後多くの寺院の瓦の調査から、2種類の組の瓦(花組、星組)があること、元奈良文化財研究所の清水昭博氏(現在、帝塚山大学准教授)による瓦の系統図「蓮華百相」(図録)の研究を紹介されました。

花組の工人達は主として大和の寺院の瓦を作り、星組の工人達は斑鳩の法隆寺や河内、摂津、吉備など上宮家に関係した広い範囲で活動した。

最後に、いつも独創的な考えを述べられる小笠原氏は今回も以下の2つの面白い考えを提起されました。

1.飛鳥時代に難波には館(むろつみ)と言われる迎賓館があり、飛鳥京に入る前に百済、新羅、隋等の使者がそこに滞在した。豊崎宮跡から飛鳥寺と同笵の瓦が出土し、考古学者はその説明に苦慮しているが、その理由は、使節を迎える館を立派に見せるため、飛鳥寺と同様に瓦葺きにしたので、飛鳥寺と同笵瓦が出土しているのではないか。

2.飛鳥寺の瓦の窯跡がまだ見つかっていない。あれだけの寺の瓦を焼いたのだから相当大規模な窯跡がどこかにあるはずだ。さて、皆さんはどこから見つかるとお考えかと提起されました。蘇我氏の本拠地は、葛城の室の宮山(御所市)近辺にあったのではないか。とすれば、その辺りではないかと、大胆に提起されました。

古代史は本当に面白い、皆さん、是非飛鳥寺の瓦窯あとを見つけましょう。
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