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仏教伝来

2013年8月11日10:30~11:30まで、万葉文化館において、「飛鳥歴史紀行」第5回講座「仏教伝来」が開催されました。講師は奈良県教育委員会文化財保存課の大西貴夫氏で、氏は以前橿原考古学研究所に所属されていたとのことです。講演項目は次の通りです。

1.伽藍をつくる  
  ・ 七堂伽藍とは塔、金堂、講堂、鐘楼、経蔵、僧房、食堂から成り立ちます。
  ・ 伽藍配置には飛鳥寺式、四天王寺式、法隆寺式などがあります。

2.舎利の埋納と本尊の安置  
  ・ 舎利を納める塔心礎  地下式から地上式へ
  ・ 本尊を祀る金堂

3.屋根を瓦で葺く 
  ・軒瓦の変遷から寺院の造営を検証する
  ・同笵関係と製作技法から造瓦工人を復元する

4.7世紀後半の寺院の増加  
  ・官寺 川原寺、本薬師寺、大官大寺、飛鳥寺
  ・私寺 坂田寺、和田廃寺、奥山廃寺、定林寺、桧前寺、山田寺、久米寺、呉原寺、安倍寺他
  ・その他 豊浦寺、橘寺、小山廃寺、岡寺 他

5.伽藍の変遷 
  ・伽藍配置の変遷 塔から金堂への重心の変化
  ・堂内荘厳  塼仏と壁画

6.軒瓦の変遷  
  ・単弁から複弁へ
  ・同系統の文様の全国的な分布

 講演で面白かったお話は、韓国扶余定林寺跡の伽藍配置では回廊は、単純な回廊ではなく廻廊に建物を含むような配置になっていることの紹介がありました。講師は以前に豊浦寺跡の発掘を担当されたそうですが、これを踏まえた検討も必要であろうと話されました。まだまだ、飛鳥のお寺には謎が多いですね。

・この種の講演会は通常90分ですが、何故か60分しかありませんでしたが講師は要領よく説明してくれました。






仏教伝来の地を歩く

12月18日有史会例会で、橿原考古学研究所廣岡孝信氏の案内で、仏教伝来の地を歩きました。コースは以下の通りです。

近鉄桜井駅⇒桜井市金屋「仏教伝来之地」石碑⇒安倍文殊院⇒安倍寺跡⇒吉備池廃寺⇒山田寺⇒飛鳥寺⇒近鉄橿原神宮前駅

<佛教伝来之碑>
最初に訪れたのは、大和川右岸に建つ「佛教伝来之地」とある大きい石碑です。大和川にかかる馬出(うまで)橋のすぐ近くです。この地は三輪山南麓にあり、欽明天皇の磯城嶋(しきしま)金刺宮附近であると推定されています。538(552)年に、百済の聖明王から金銅の釈迦像、経論、幡蓋などが届けられ、佛教公伝の出来事として知られています。

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<馬出橋から大和川下流、二上山遠望>
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<飾り馬>
遣隋使、小野妹子が推古天皇16年(608年)に裴世清(はいせいせい)を伴って帰国し、飛鳥京に入るとき、海柘榴市(つばいち)の路上で、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が飾り馬75頭で迎えたと、日本書記にあります。川原の飾り馬が私達を迎えてくれました。

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<海柘榴市(つばいち)看板>

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<海柘榴市(つばいち)説明>

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<安倍文殊院>

  孝徳天皇のときの左大臣、安倍倉梯麻呂の氏寺として建立されました。本尊は鎌倉時代の仏師快慶の作で智恵の「文殊菩薩騎獅像」です。拝観料を払うと抹茶と「らくがん」が出され、真近で拝観できます。文殊菩薩像は、大きな獅子にまたがり、総高7メートル(日本最大)もあり、右手には降魔の利剣を、左手には蓮華を持つ極彩色の渡海の騎士像です。四体の脇侍像とともに一度だけでも拝観する価値がある素晴らしい像です。
  天の橋立切戸の文殊像、山形県亀岡の文殊像とともに日本三大文殊と言われています。

<金閣浮御堂>

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<安倍仲麻呂歌碑>

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<本堂>
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<特別史跡:西古墳>

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<安倍寺跡>

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<吉備池廃寺>
 吉備池廃寺は、舒明天皇発願の飛鳥時代最大の官寺である「百済大寺」である可能性が高い寺院遺跡です。1997年度からの調査により、金堂跡、塔跡の基壇が発掘されており、版築地業の範囲が確認されています。遺構から推定すると、高さ100m近くの九重の塔がこの地に建っていたと推定されています。飛鳥寺や法隆寺の倍以上の大きさだったようです。

僧坊跡と見られる掘立柱建物も確認されていますが、講堂跡は未発見です。廣岡氏によれば、写真1の池の正面対岸のこんもりとした竹林の森辺りであろうと予想されているそうです。今後の調査が期待されます。

 日本書記によると、百済大寺は舒明十一年(639)に造営が開始され、百済川のほとりに、百済大寺と百済宮が造営されたという記述があります。廣岡氏によると、百済川の名前は残っていないが、少し南側を流れる米川が百済川の最有力候補である、また百済大宮は西の民は宮を作り、東の民は寺を作ったという記述があるが西に作ったわけではない。そして、日本書紀には「書直県(ふみの あたい あがた)をもって大匠とす」とあり、渡来系の書直県が建築主任となって寺の造営をおこなったことが書かれています。

百済川(米川)のほとりに舒明の宮殿があったと考えられる、まだ発掘されていないが、今後の調査が待たれます。ワクワクするお話しでした。

百済大寺は「大安寺伽藍縁起流記資財帳」、「続日本紀」等によると、以下の変遷をたどり、現在、奈良市にある大安寺となります。
 
  百済大寺(舒明十一年七月詔)ー>高市(たけち)大寺(天武二年、百済大寺を移築)ー>
  大官大寺(天武六年、高市大寺改め大官大寺と号する)ー>大安寺(平城遷都後)

吉備池廃寺跡の発掘調査で瓦の出土が非常に少ない。その理由として、百済大寺を高市大寺に移築したからではないかと考えられる。高市大寺の場所としては、飛鳥の雷丘(いかずちのおか)付近が有力となっている。その附近から出土する瓦が大安寺でも出土する。その後、天武六年、高市大寺を改めて大官大寺となります。大官大寺跡は飛鳥に遺跡として特定されています。平城京遷都で大官大寺は奈良市へ移され大安寺となります。大安寺から、高市大寺跡や大官大寺跡の瓦が多く出土しているそうです。



<写真1:吉備池廃寺>

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<僧坊跡>

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