新羅・任那使を迎えた古代の道 その5
推古16年(608年)夏4月、遣隋使小野妹子は唐より裴世清(はいせいせい)とその従者12人を伴って帰国しました。 朝廷は難波に新しい館を造り、唐の客人を泊めました。8月3日に、飾馬75匹を遣わして海石榴市の路上で額田部比羅夫が、唐の客人を迎え挨拶を述べました。12日に飛鳥の小墾田宮に入りました。
従来、この海石榴市は桜井市の三輪山麓の初瀬川の付近にあり、裴世清らは大和川を遡って船運を利用して海石榴市で上陸したものと考えられてきました(岸、1970)。しかし、その後の発掘調査で、隋使や、その2年後に新羅・任那使が入京したときは、大和の古道はすでに整備されていた可能性が強くなり、陸路を通った可能性が近江らによって指摘されるようになりました(近江、2012)。
推古18年(610年)新羅使と任那使が入京したとき、額田部比羅夫は新羅使を迎える荘馬の長となり、また膳臣大伴は任那使を迎える荘馬の長となり、使人を阿斗河辺館に宿泊させました。その翌日使人は推古天皇の小墾田宮に招かれました。これらの使者が、陸路をとったとき、通ったと想定される道は、龍田道、筋違道、保津・阪手道、下ツ道、横大路、阿倍山田道で、「阿斗」は桜井市粟殿(おうどの)(現、桜井市役所のある付近)辺りでなかったのかと、重見氏は述べられました。従来、阿斗は田原本町阪手付近ではないかと、近江氏によって述べられていますが、重見氏はそうでない考えを述べられました。
聖徳太子は遣隋使を派遣したり、実弟と異母弟を大将軍に任命して新羅遠征を企図したように、新羅・任那外交に積極的に関わっていました。法隆寺西院伽藍の金堂の地下から出土した新羅産の緑釉多足円面硯(りょくゆうたそくえんめんけん)は、7世紀前半の製品であり、推古24年(616年)か、推古31年の新羅使が聖徳太子への献物としてもたらしたものと考えられます。この硯は直径が20cmある大型品で、新羅でも希少な緑釉陶器で、新羅から倭国にもたらされた唯一の硯であることからも、新羅が聖徳太子への特別な配慮がうかがえます(有史会報第578号参照)。
結論から言えば、新羅・任那使が入京した道は、隋使が入京した道と同じで、龍田道で大和へ入った使い人は、おそらく斑鳩の宮で聖徳太子の迎接を受け、そして筋違道を南下して保津・阪手道に入り、隋使は海石榴市へ、新羅・任那使は阿斗河辺館へ向かったと推測されます。
なお、難波津から大和へ入る経路で、生駒山・暗峠越は山が険しく余り使われず、通常は大和川沿いの龍田道の方が高度は低くよく使われたようです。万葉集などにも龍田道がよく歌われています。ですから、陸路を取ったと仮定した場合は、裴世清なども龍田道を通ったと推定されます。
有史会報第578号参照

有史会報第578号参照

磯城の里ウォークパンフレット

従来、この海石榴市は桜井市の三輪山麓の初瀬川の付近にあり、裴世清らは大和川を遡って船運を利用して海石榴市で上陸したものと考えられてきました(岸、1970)。しかし、その後の発掘調査で、隋使や、その2年後に新羅・任那使が入京したときは、大和の古道はすでに整備されていた可能性が強くなり、陸路を通った可能性が近江らによって指摘されるようになりました(近江、2012)。
推古18年(610年)新羅使と任那使が入京したとき、額田部比羅夫は新羅使を迎える荘馬の長となり、また膳臣大伴は任那使を迎える荘馬の長となり、使人を阿斗河辺館に宿泊させました。その翌日使人は推古天皇の小墾田宮に招かれました。これらの使者が、陸路をとったとき、通ったと想定される道は、龍田道、筋違道、保津・阪手道、下ツ道、横大路、阿倍山田道で、「阿斗」は桜井市粟殿(おうどの)(現、桜井市役所のある付近)辺りでなかったのかと、重見氏は述べられました。従来、阿斗は田原本町阪手付近ではないかと、近江氏によって述べられていますが、重見氏はそうでない考えを述べられました。
聖徳太子は遣隋使を派遣したり、実弟と異母弟を大将軍に任命して新羅遠征を企図したように、新羅・任那外交に積極的に関わっていました。法隆寺西院伽藍の金堂の地下から出土した新羅産の緑釉多足円面硯(りょくゆうたそくえんめんけん)は、7世紀前半の製品であり、推古24年(616年)か、推古31年の新羅使が聖徳太子への献物としてもたらしたものと考えられます。この硯は直径が20cmある大型品で、新羅でも希少な緑釉陶器で、新羅から倭国にもたらされた唯一の硯であることからも、新羅が聖徳太子への特別な配慮がうかがえます(有史会報第578号参照)。
結論から言えば、新羅・任那使が入京した道は、隋使が入京した道と同じで、龍田道で大和へ入った使い人は、おそらく斑鳩の宮で聖徳太子の迎接を受け、そして筋違道を南下して保津・阪手道に入り、隋使は海石榴市へ、新羅・任那使は阿斗河辺館へ向かったと推測されます。
なお、難波津から大和へ入る経路で、生駒山・暗峠越は山が険しく余り使われず、通常は大和川沿いの龍田道の方が高度は低くよく使われたようです。万葉集などにも龍田道がよく歌われています。ですから、陸路を取ったと仮定した場合は、裴世清なども龍田道を通ったと推定されます。
有史会報第578号参照

有史会報第578号参照

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