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平城宮第二次大極殿跡

 元明天皇は710年に都を藤原京から平城京に遷都し、朱雀門の北の少し高い土地に大極殿を建立した。 後に造営された大極殿と区別するために、これを第一次大極殿と呼ぶ。その後、740年に、聖武天皇は平城京を離れて、恭仁宮(740)、難波宮(744)、紫香楽宮(744)を転々としたが、745年、平城宮に還都し、壬生門の北に大極殿を建立した。これを、第二次大極殿と呼ぶ。

 現在の平城宮跡では、第一次大極殿院と、第二次大極殿院のエリアの間に、南北に自動車道が通っており、通称「みやと通り」と名付けられている。 「みやと通り」近くにある休憩所に掲げられた平城宮跡の地図を以下に示す。

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平城宮跡地図
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みやと通り
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第二次大極殿跡

 聖武天皇は平城還都後に、この場所に礎石建ち瓦葺の第二次大極殿を新しく建立したと推定されている。それ以前は記録に見える掘立柱建物の「大安殿」があったという見方もある。現在は、基壇を復原し、新しい礎石を配している。 第一次大極殿より少し小さいが、間口9間(38m)×奥行4間(16m)、高さ21mの建物があったと想定している。階段は正面に3基復原されている。

正面には、大殿極阯の石碑が立てられている。また、七個の幡立てが設置されている。

大極殿の周囲には複廊の築地回廊がめぐり、南に南門が開き、大極殿院を構成する。

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石碑
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階段
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幡立て
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7個の幡立てと第一次大極殿
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基壇の上
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銅板による大極殿と朝堂院建物案内図
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複廊築地回廊礎石復原
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みあと通りから基壇
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第一次大極殿院エリアから、みあと通り、を横切って第二次大極殿院エリアへ行く道
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平城宮跡南門復原工事現場第2回特別公開

  2019年10月26日、27日に、国土交通省近畿整備局国営飛鳥歴史公園事務所主催の平城宮跡第一次大極殿院南門復原整備工事第2回特別公開が行われました。

前回の第一回目の公開は5月25、26日でしたが、その時はまだ立柱式を行った直後だったので、4本の柱のみが立っているだけで、その他の柱の礎石がたくさん見えていました。

今回は初重の天井格子の作業は終わっており、丸桁がかけられ、地垂木と丹土による塗装も見えました。地垂木で塗装していない部分は、隠れてしまう部分だそうです。

 今回は隅の尾垂木や地垂木と飛檐垂木の関係、木負の構造ががよくわかりとても興味深かったです。 また、自然の節理により、ひび割れている材は、見えないところでうまく使われていました。 

前回の見学時より、工事の進み具合がとても速いので驚きました。 この段階で見学会が行われ、初重の構造がよくわかり大変良かったです。 また見学会では、法隆寺の宮大工の西岡棟梁が復原した槍鉋を用いた仕上げが、若い宮大によって引き継がれている事に感心しました。古代道具を使いこなして一人前になるためには10年かかると言っていました。
 
そうした古代の技術の継承を行いながらも、現在の耐震化工法を適用して、隠れた部分にはしっかりと頑丈な鉄骨が仕込まれていました。また、別の棟の作業場にはコンピュータ制御の製材機械やNC工作機械が持ち込まれ、現代日本の最先端の製材技術が用いられていました。巨大な素屋根の鉄骨による構造物と南門の絵は、羅城門があった大和郡山市の郡山城の天主台からもはっきりと見えています。

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平城京第一次大極殿院周辺エリア
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第一次大極殿
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南門工事用素屋根
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ポスター
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公開現場

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10月26日段階 丸桁 初重地垂木多数。縦の灰色の鉄柱は耐震補強材
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別方向から1
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別方向から2
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ギザギザは木負、飛檐垂木をのせる
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丹塗りした丸桁、地垂木(奥は塗装なし)、木負
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隅木(飛檐隅木、地隅木)
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飛檐隅木、地隅木を横から見る。これから組み立てる造作済の地垂木などが床に山積み
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丸桁、地垂木
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大斗と肘木
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南門構造各パーツの名称
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談山神社 嘉吉祭

 台風19号接近で開催が危ぶまれていましたが、談山神社における令和元年度(2019)の嘉吉祭(かきつさい)は、10月13日(日)、談山神社と多武峰の村民、関係者の列席の下、滞りなく終了しました。 

 談山神社の明治以前の前身は、妙楽寺または多武峰と呼ばれる大寺院でした。多武峰は藤原鎌足像を祀っていながら、天台宗に宗派を転じたため、南都北嶺の激しい争いに巻き込まれ、興福寺との争いが絶えませんでした。

 本殿には藤原鎌足公が祀られていましたが、室町時代に、南朝の遺臣が多武峰を拠点に兵を挙げ、足利幕府による攻撃の兵火を避けるため、神霊である鎌足像を明日香村の橘寺に一時退避しましたが、3年後の嘉吉元年(1441)8月、鎌足像は多武峰に戻されました。

 これを記念して24年後の寛正6年(1465)より、嘉吉元年の神霊奉還の日に祭礼が営まれるようになりました。これが嘉吉祭のはじまりです。当初は8月におこなわれていましたが、新暦になり10月11日となり、現在では、10月の第2日曜日に行われています。

嘉吉祭で、本殿の鎌足公に供えられる神饌を「百味の御食(ひゃくみのおんじき)」と呼ばれ、百種類が供えられます。
お供えで特徴的なものを紹介します。

和稲(にぎしね)
 1台で四色に染め分けられた米粒を約3000粒用いてきれいな模様を作る。これを4台作る。
 
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荒稲(あらしね)別名 毛供(けごく)
  もみ付きの米から(のぎ)の長い古代米でひげがたくさん出ている。白色、赤色、黒色の3台作る。
 
一番最初に供えられるものは、お人形(無垢人:むくびと)と鶏頭のお花です。

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蒸御供(むしごくう)
 鎌足さんのお弁当で、蒸したもち米が二升分入っており、藁で包まれている。

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倉餅(くらもち)
 平板の餅で、緑、黄、赤、白で倉庫の屋根の形をしている。
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芋やミカンなどの地元の産物
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台の構造を上から見る
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お供え物
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本殿へお供えをはこぶ
 氏子による奉仕
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同上
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お魚
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カエデと枝にトンボ状団扇
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宮司による神事
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宮司祝詞奏上
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感想:
  法隆寺の聖霊院には秘仏の国宝・聖徳太子像が祀られており、お会式の日(3月22~24日)には、太子像の前に大山立てが飾られます。百味の御食とよく似た飾りで、もしかすると、橘寺へ避難したときに、太子像に対する神饌に影響を受けたのではないかと思いましたが、真相はわかりません。



 

斉明天皇の神まつりと吉野宮を体感する その4/4

  バスは宮滝を出て、吉野川が大きく湾曲する菜摘を過ぎ、紙漉きの里国栖(くず)に入り、割箸の里、南国栖に入りました。南国栖の吉野川支流の断崖絶壁に、天武天皇を祀る浄見原神社があります。 浄見原神社では毎年旧正月14日に、国栖の翁たちによる国栖奏が催行されることで有名です。 
 
日本書紀応神天皇十九年条冬十月一日に以下の記事があります。

 『天皇が吉野宮においでになった。国栖人が醴酒を天皇に奉り、歌を詠んだ。歌が終わると、半ば開いた口を掌で叩いて仰いで笑った。いま国栖の人が土地の産物を奉る日に、歌が終わって口を打ち笑うのは上古の遺風である。国栖は人となりが純朴であり、常は山の木の実をとって食べている。また、カエルをを煮て上等の食物としており、名付けて毛瀰(もみ)という。…』

 応神天皇の時代から天皇が吉野へ行幸され、吉野の国栖人たちは舞と歌と食物を献上していたことが記されています。
 国栖の地は、古くから道が開かれ、地理的には伊勢、熊野へ抜ける道があり、また大和政権の宮へ近く、交通の要衝にあるともいえます。

 大津の宮を出て、吉野に隠棲していた大海皇子は、吉野で兵を挙げ、大宇陀から伊賀に出て、大海皇子の乳母の本貫地の美濃に行き、美濃・尾張の軍勢を集め、不破の関を押さえ、大津宮に攻め入り勝利して、飛鳥へ戻り、 飛鳥浄御原の宮で、天武天皇として即位しました。大海皇子が、吉野を少人数で発ったときには、国栖の青年たちが、大海皇子や皇子達の輿を担いだと言われています。大海皇子が吉野で敵の探索にあったとき国栖の人たちが匿ったという言い伝えがあり、隠れた断崖絶壁に祠を造り、天武天皇をお祀りしています。

なお、天皇が新しく即位する大嘗会においては、貞享4年(1687)第113代東山天皇に至り、大嘗会が再興され、国栖奏が奏上されるようになった。まもなく催行される今上天皇の大嘗祭においても、宮内省楽官による「国栖の古風」が奏されると思われる。

なお、国栖の翁による国栖奏は毎年、橿原神宮で奏上されている。

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吉野 南国栖の清流
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天皇渕1
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新説明板
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天皇渕2
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浄見原神社(祭神 天武天皇)
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斉明天皇の神まつりと吉野宮を体感する その3

 
宮滝 (奈良県吉野郡吉野町宮滝)

 比曽寺を出たバスは、吉野川に沿って走る国道169号線に乗り、まもなく、三角形の美しい形をした妹山、そのふもとにある大名持神社を過ぎて、さらに約6km走ると、風光明媚な宮滝に出ました。 学生の頃には吉野川の河原の岩に腰掛けて、喜佐谷からほとばしる象(きさ)の小川の「夢のわだ」を眺めながら、犬養先生の万葉の朗唱と歌の解説に聞き入りました。若かりし頃の犬養先生もきっとこの景色を学生たちに見せたかったに違いありません。

今回も、柴橋から川面を覗くと、藍も変わらず青と緑のエメラルドグリーンが白い岩や砂洲に映え、とても印象的でした。

宮滝 「夢のわだ」

「我が行きは 久(ひさ)にはあらじ 夢のわだ 瀬にはならずて 淵にもあらぬかも」
 大伴旅人 (巻三ー三三五)

『「夢のわだ」は、象(きさ)の小川が吉野川にそそぐ、大きな岩にかこまれた深淵のところといわれる。大伴旅人が大宰師となって九州に赴任したのは神亀5年(728)頃、梅の宴を催したのもその頃である。「他行(九州滞在)は長いことではあるまい。あこがれの夢のわだよ、浅瀬にはならないで、淵のままであってくれ」との心持ちである』(犬養孝著「万葉の旅(上)」p186、平凡社)。

夢のわだ、釣人も見える。
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 このような唯一無二の美しい風景を愛で、歌を詠み、船を浮かべて、宴などをするために、飛鳥浄御原の宮から宮滝へ、持統天皇が32回も来られたことに納得してしまいます。奥飛鳥から芋峠を越えるか、多武峰に出て鹿路峠を越えると、宮滝まではそんなに遠い距離ではありません。 最近では、宮滝で温泉が湧いたこともあり、持統天皇は湯に浸るために、唐の楊貴妃のように何回も行幸されたのではないかと言う説も飛び出す始末です。

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夢のわだ(大雨の時は谷川が激流になる)
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激(たぎ)つ河内

「山川も依りて仕ふる 神ながら 激つ河内に舟出せすかも」
柿本人麻呂(巻一ー三九)

吉野川両岸の絶壁にかかる柴橋から川面を見ると上流から激流が流れ来て、激つ河内に舟がこぎ出した様を想起する。今は、上流にダムができ川の流れは穏やかになっているが、柿本人麻呂の時代はたぎっていたに違いない。

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柴橋
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日本書紀に登場する吉野宮

1. 日本書紀には、応神天皇19年条に天皇が吉野に行幸し、国栖奏を奏上された記事が掲載されています。また、雄略天皇2年条、4年条にも天皇の行幸記事が見られます。 古来より吉野は神仙境とみなされ天皇が行幸される天皇家ゆかりの土地でした。

2. 斉明2年(656)には吉野宮造営記事が見られます。また、斉明5年(659)に、斉明天皇の行幸記事が掲載されています。
大海人皇子は天智10年(671年)に、剃髪後、大津宮を出て吉野宮に入ります。672年には挙兵し、壬申の乱が勃発します。
同年、大海人皇子は飛鳥浄御原の宮で即位し、天武天皇となります。

宮滝遺跡の発掘調査

 宮滝遺跡の第1次調査は末永雅雄氏によって昭和5〜13年(1930〜1938)に初めて行われました。この調査で宮滝遺跡は縄文時代、弥生時代から続く遺跡であることが分かり、昭和32年(1957)に国史跡に指定されました。その後、昭和50年(1975)から第2次調査が始まり、それ以来現在まで70次に渡って調査が続けられ、斉明、天武・持統、聖武朝の宮殿跡が次々と見つかっています。 宮滝の宮殿遺跡は、現在の所、飛鳥時代以降、4期に区分されます。

 第1期(7世紀中頃): 吉野資料館に近い宮滝遺跡中央部で、斉明朝の園地や建物跡が見つかっており、復元模型が資料館に 展示されています。

 第2期(7世紀後半から8世紀初): 天武・持統朝の吉野離宮跡は、斉明朝の遺跡範囲を包含し、さらに西に拡大し、大規模となっている。持統天皇は31回も行幸している。

 第3期(8世紀前半〜末):  奈良時代に、聖武天皇が行幸した吉野離宮跡で、芳野監の役所があったとされる場所。この場所は、吉 野川近くの、宮滝遺跡西部で、末永氏が第一次調査で石敷き遺構を発見した所です。象山が真近に迫って見える場所で、石敷き遺構や石組溝が検出されている。平成27年度から行われている、ごく最近の調査では、宮殿級の大型掘立柱建物(間口9間×奥行5間=23.7m×9.6m)1棟と掘立て柱塀跡を検出しました。

第4期(9世紀〜10世紀) : 宇多上皇、菅原道真らと宮滝へ行幸。

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宮滝遺跡最大規模建物遺跡(平成29年度第69次調査)
赤いテープが大型建物跡
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右手に象山が迫る。吉野川がすぐそば。
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第一次調査石敷き遺構写真
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宮滝遺跡発掘調査地図
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持統朝頃の園地遺構復原(吉野資料館)
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